「日本列島が体の一部のような感覚」に陥った男が問う働き方と住み方

働くことと住むこと、どっちが大事?
村上 慧 プロフィール

「目的地主義」と呼ぶべき価値観

<2018年7月31日の日記より>
いまフェリーは下関の関門海峡を通過している。僕のiPhoneはとっくに日本の携帯電話会社の電波を拾って、メールの送受信を始めている。船のデッキには下関の夜景を見ている人たちがいる。僕もさっきまで夜景を見ていた。一番最初に目に入った日本語は「餃子の王将」だった。夜景は綺麗だ。釜山の夜景もソウルの夜景も、下関の夜景と全く同じ綺麗さだった。奇妙だ。僕は韓国で船に乗り、数時間経ったら日本の夜景を見ている。その夜景は釜山でみたものとほとんど同じで、綺麗だった。やっぱり飛行機という乗り物は他の乗り物と比べてすこし特殊なのだと思う。一度陸を離れてしまうことで、経験が切断されてしまう。それに比べて船は、ずっと地続きというか海続きなのでずーっと経験が持続している。この釜山と同じ夜景のもとで、人々は全く違う言語を話して違う法律のもとで生活していると思うと、とても奇妙だ。僕はついさっきまで釜山にいて、昼が夜になったら日本の夜景になっている。船旅のこの奇妙さは経験してみるまで知らなかった。

土地の断絶があると、出発地と目的地の”あいだ”にあるものへの想像力がなくなってしまう。また自動車や電車の異常に速いスピードも”あいだ”への想像力を失わせる作用があると思う。

山間の国道なんかを歩いているとよくわかるのだけど、車は異常な乗り物だ。あんなに大きくて重いものが、すごいスピードで走っている。

徒歩での移動生活を続けていると”目的地主義”とでも呼びたくなるような、かたい思い込みが心の中に根をおろしてしまっているのがわかる。前もってゴールを設定し、そのゴールにたどり着くことが最も素晴らしいことだ、という価値観。

もちろん前もってゴールを設定(目的地でも、なにか成りたい職業でも、「こんな人と結婚したい」でもなんでもいいが)するのはもちろんやるべきだ。でないと一歩目が踏み出せないからだ。

だけど一歩目から後、歩みを進める最中に目に入る景色や、経験を積んで視野が広がる自分のことを、前もって想定することは絶対にできない。

なのでその時々で自分が感じることを信じて、道がどんどん逸れていくことも怖らがずに受け入れていった方が良い。理念と経験のバランスを取る、と言っても良い。理念を経験によって切断した方が良い場合もあるし、その逆もあるということだ。

 

僕は時々トークイベントなどに呼ばれることがある。例えば大阪で8月にトークを頼まれたとする。東京から行くとして、新幹線でいくと2時間半で着いてしまう。

しかしこの家は新幹線に載せることはできないので、歩いて移動しなければいけない。途中フェリーを使って徒歩で移動すると、ちょうど500キロくらいある。

この距離の移動は経験上、体調を壊さなかったとしても50日間くらいかかる(僕はこの生活の最中に何度か体調を壊している。余談だけど病院においては、患者は近所に定住していて、そこから通うことを前提にしている。僕は移動生活中に何度か”近くの病院”にかかったことがあるけど、「来週はここまで来られるかわからないので、今日一回ですませたいです」と言う必要がある。そして病院に行くたびに新しい診察券をつくるのでそれが溜まってしまったりする、そしてその診察券も重たく感じる……)。

2018年8月1日大阪。フェリーで運んだら家が壊れていることもある。

なのでもし僕が東京から家を運びつつ大阪で話すためには、本格的な夏になる前に東京を出発し、7月の半ばごろに浜松で「うなぎ」なんかを食べて8月にようやく到着する。

そこでトークイベントを行い、大阪から東京に歩いて戻る(そんなことは普段しないけれど)として、8月の終わり頃に富士山の麓を通って9月半ばごろに東京に着く。大阪で1日仕事をするための移動に80日間くらい使うことになる。

そうすると何が起こるかというと、大阪に行くために歩きはじめたはずが、歩く最中に遭遇するいろいろなことに巻き込まれて、そちらのほうも面白くなってくる。

他の仕事があるから、1日の仕事のために80日間も移動に費やすことはできないと思うかもしれない。僕もそう思ってしまう。でもそう考えてしまうことの背景は考えた方がいいと思う。

でもそれは仕事(や労働)が先にあって、それによって自分の住み方が決定されるという思い込みに由来すると思う。先に「住む」(もしかしたら「生きる」と言っても良いかもしれない)ということがあっても良いと思う。

そしてその後で仕事(や労働)の方法を考えても良いはずだ。特に僕は震災以降はそうするべきだと思い、「住み方」をいくつか身につけてみたいと思った。

労働のために生活があり、生活のために労働がある。

このループによって社会は発展してきたはずだし、僕たちは幸せになってきたはずだけど、その無限に上を目指すようなやり方をしてきた結果、電車が脱線したり原発が爆発したりしたのではないか?

「住む」ことを「仕事や労働」よりも優先させて作ることを考えてみてもいいのではないか?

(ここで少し詳しく僕自身の収入の話をした方がいいかもしれない。実際お金はどうしているかというと、2014年頃はアルバイト(大分県のレストランで皿洗いとか、岩手県の工事現場で足場材にペンキを塗ったりとか)をしながら移動することもあったし、最近ではこのプロジェクトを含めた色々な制作活動によってお金を得ることも多くなった。

僕はいまのところ、制作した作品の売買や、展覧会等への出展フィー、出版した本の原稿料や印税、知人の紹介によるアルバイトなどによって収入を得て生活している。アートの面白さと難しさに救われ、本や雑誌やこのようなウェブメディアに助けられながら生活している。

僕はこのような活動を通して自分なりに”研究”をしているつもりだけど、こんな研究に価値があると考え、お金を払い、展示や発表の機会を与えてくれる人々に支えられている)

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