(第一回はこちら:家をせおって日本各地を歩いた男が問う「生活の大前提」)
知らない土地で生まれる地元感
敷地を借りる過程を通してその町の人々と交流するなかで、そこが地元であるかのような感じを覚えることがある。
宮城県の石巻ではお祭りの縁日で焼き鳥を焼くのを手伝ったり、富山の下飯野という町では、担ぎ手が足りないということで秋祭りのお神輿を担ぐのを手伝ったりもした(神輿の担ぎ手は全国的に不足している。途中途中で神輿をトラックに積んで運ばざるを得なくなってしまったお祭りもあった)。
また色々な町の日常の話を聞けるのも面白い。

北陸のある町で聞いた話では、地域の仲間意識が今でも強く残っていて外から引っ越してきた人がびっくりするような感覚で近所付き合いをしていたりするという。
「良いタコが捕れたから、あんたの家の冷蔵庫に入れておいたよ」 と言われて、帰って冷蔵庫を開けたら生きたタコが入っていたり、家を新築すると町の人がみんな家を見にきたりする。
どんな家が建ったのかを見るというよりも「嫁入り道具」を見るため、タンスの中とか押し入れとか隅々までみてまわる。
例えば着物を見ると、その人の家がどの程度の家なのかがわかる。だから、タンスの中にはそうやって人に見せるための服をいれておくという対策をとったりする。
また岩手県の沿岸部では、ちょうどウニの解禁日の時に通りかかったこともあり、東京で買ったら3000円はしそうなウニ丼が普通に家庭の食卓で食べられていて驚いた。
青森県の奥入瀬渓流という温泉地では定食屋のおばちゃんから「昔このあたりは青森まで行く人が寄って行く観光地としてとても盛えていたけど、新幹線が青森まで延長してからは客が減ってしまった」という話を聞いた。
その後訪ねた十和田湖で毎年行われる恒例の花火大会では、冒頭に「今年で第49回となりました十和田湖水祭。予算が大変厳しい状況ですが、たくさんの地元の企業様からの協賛金によって、今年もなんとか花火を打ち上げることができます」と、大変切実なアナウンスをしていて、僕は花火よりもむしろそちらに心を動かされた。
熊本の南阿蘇村では都会から越してきた若い人たちが新規就農者として農業を支えていたし、茨城県で出会った酪農家(酪農家自体の数が減っている中、彼は若いながら覚悟を決めて牛の面倒を見ていた)からは「原発事故のあとしばらく電気が使えなくて乳を絞ってあげられなくて、牛たちが辛そうに鳴いていたのが悔しかった。復旧しても数ヵ月間は線量検査で引っかかって出荷できず、毎日何トンも牛乳を捨てていた」という話を聞いた。
奈良県から暗峠というものすごく急な坂道を家を運びながらよじのぼって、へとへとになって東大阪市に入ったときは子供から木の棒を投げられた。さすが大阪の子供は元気が良い。
鹿児島市ではコインランドリーがとても多いなと感じた。地元の人に聞いても「それは考えたことなかった」と言われたけど、感覚的には明らかに他の町よりも多かった。
桜島から降る火山灰の影響だろうと思った。桜島周辺の町では、日常的に火山灰が降る。僕の家の窓枠にも、一晩でうっすら目に見えるくらいに灰が積もっていた。
なのでそこには「燃えるゴミ」や「燃えないゴミ」と同じような感じで、火山灰を回収する袋がある。このような地域ごとの話が自分の中に蓄えられていくにつれ、この移動生活もそのなかの一つに過ぎないと思えるようになる。
さていま、たくさんの「地名」を出したけど、この移動生活そのものと土地の行政区分はあまり関係がない。それは茨城県から福島県に入ったからといって、天候が急に変わるわけではないのと同じことだ。
今日ひとつ発見をした。どうやら「歩道があるかないか」と「携帯電話の電波が良いか悪いか」は比例する。 いつのまにか気仙沼市に入ったらしい。気仙沼に入ったからといってなにか突然風景が変わるわけでも道路の状態が変わるわけでもない。そこにずっと暮らしていたらそういう行政区分は大切なんだろうけどこの生活にはほとんど関係ないな。曜日感覚もない。洗車している人が多かったら休日なのだなあと思うくらいで、自分自身にはほとんど関係ない。大事なのは、空はあとどれくらいで暗くなる のか、風は強いか、敷地は見つかっているか、そこは電源が使えるか、シャワーかお風呂に入れそう なところはあるか、スーパーかコンビニか自動販売機が近くにあるかとか、そういう事ばかり。
なのでこの生活はずっと地続きだ。
移動生活のあいだはいくら移動しても「どこかに行っている」という気がしない。「どこかに行く」には、ベースとなる場所が必要だ。しかし僕は家を動かしている。
つまりベースが動いてしまっているので結果的に、いくら歩いても「どこかに行っている」という感覚がない状態になってしまった。どこまで歩いても地元から出られないという感じだ。
ずっと歩いているから生活が地続きになり、土地と土地の断絶がない。それを続けていると日本列島全体が自分の体の一部であるかのような感覚になってくる。
そして今年は韓国に行っても「日本での生活を同じようにやっているだけだ」と感じた。