発泡スチロールの小さな家をせおって日本中を歩いて気づいたこと

家とは何か、公共とは何か
村上 慧 プロフィール

公園は誰のものなのかという認識も人によってばらばらだ。

僕は普段公園では公園では眠らないのだけど、大阪のとある町で神社の神主さんに勧められて、住宅地の中にある公園で眠ったことがあった。

そこは近所の住民が犬の散歩をしにきたり、ただぶらぶらと歩いていたり、朝になるとラジオ体操が行われる場所だった。

僕は公園で寝泊まりすることを怒り出す人がいるのではないかと心配だったけど、そこで色々な住民の方と話をして聞こえてきた台詞は「ここは景色が良くて風もあるから気持ちが良いよ」や「ラジオ体操の時、みんなびっくりできて、良いじゃない」といったものだった。「ここらの人はみんな落ち着いていて優しいから大丈夫よ」という人もいた。

翌日はラジオ体操に集まったおばちゃんたちの喋り声に起こされたのだけど、おばちゃんの一人が家の中で眠っている僕に対して「ここは公共の場所やからね、喋らせてもらいます」と言ってから話をしていた。

とても居心地の良い公園だった。もしかしたら地域のコミュニティ意識があるからそのような心持ちでいられるのかもしれない。

 

ちなみに今年の夏、僕はこのプロジェクトを韓国で行った。

釜山現代美術館の協力で、釜山の街中で3週間ほど生活した。

美術館の学芸員が敷地を交渉してくれて、僕は博物館の軒下や市役所の敷地や公園などを引っ越してまわった。

釜山市が主導している事業の一環で行われていることもあり、そのような土地を借りる許可を得ることができた。同じ条件で日本の市役所の土地を借りようとしたけれどできなかった。

日本の博物館などはもっと難しいと思う。韓国と日本とで、公共空間に対する意識のなにかが違う。

「受け取る」と「もらう」ということ

敷地を貸してもらったお礼として絵(僕は各地で家の絵を描きながら移動している)のコピーをプレゼントしたりもする。移動しながら育てていたブルーベリーをプレゼントしたりもした(1、2粒程度しかあげられないのだけど)。

この「受け取る」と「もらう」ということについても考えるようになった。

家を背負っていると、人の目には「何かを頑張っている人」として映ることも多いので、水や飲み物をくれようとする人も多い。

お金なら軽いので、嬉しく受け取れる(お金をもらったエピソードもいくつかある。新潟県を歩いている時に道端ですこし話しただけで名前も名乗らず2万円を握らせてくれた人や、九州で仏教徒の方から"お布施"としてお金を受け取ったこともある……。断ろうとしたら「自分の徳を積みたいので」と言われたので、受け取った)。

水などはこちらとしては荷物が増える(ただでさえ家が重いので”重さ”に敏感になる)ことにもなるので負担に思うことが多いのだけど、それを受け取ることは、こちらから相手へのプレゼントなのだと思うようになった。

だいたいこの移動生活自体も、不思議なことに自分がやりたくてやっているという自覚がない。僕はこのアイデアを受け取って、それに動かされているという感覚がある。

(つづく)