発泡スチロールの小さな家をせおって日本中を歩いて気づいたこと

家とは何か、公共とは何か
村上 慧 プロフィール

昨日と今日を分けるために一度帰る場所。それがなければ経験を経験として受け止められないまま、昨日と今日の境界が曖昧なまま時間が流れていく。

もしかしたら文章による日記に限らず、絵を描くでもいいし、編み物をする、などでもいいかもしれない。

よく思い出すのだけど子供の頃は今よりも日々の境界がはっきり分かれていて、明日をちゃんと「新しい日」として捉えることができていたと思う。

それはとても健全なことだと思うので、その日のその日のうちに経験を適切に処理するのはお勧めできる。

 

「公共」とは何だろう

僕は敷地を借りなければ眠ることができないけど、敷地は誰もがはいどうぞと貸してくれるわけではない。断られることの方が多い。

そしてその断り方にもバリエーションがある。

ストレートに「うちはお断りします」と言う人もいれば、

「近所の目があるから、人を敷地内に眠らせるわけにはいかない」
「朝に来る巫女さんたちやジョギングの人たちが驚くから、そういうものを置かせるわけにはいかない」
「昔、旅をしている若い人たちに境内にテントを張らせてくれと言われて許可したんだけど、それでちょっと問題が起こってそれ以来断るようにしている」
「神社の建物は固定資産税がかからないことになっている。あなたの家を置いたらその対象から外れてしまうので置くことはできない」(これにはびっくりした)
「道路を上っていった方に別のお寺があるから、ここよりもそっちの方が良い」(その後道路を上っていった先のお寺では「道路の下のお寺の方が良い」と言われた)
「このあたりは自分の家も改修するのに許可がいるような景観保全地区なので、そのようなものは置けない」などなど。

逆に滋賀県のとある町では初対面の僕に対して「お寺という場所は、君のような人のためにある。ここ最近は君のような人が訪ねてくることが減って、お寺の役割を果たしていないと感じていた。だから来てくれて嬉しい。仕事ができる」と言ってくれたお寺もあった。

また色々な場所で敷地の交渉をして感じたのは、公共空間というものが何を指すのかということについての共通の認識がないということだ。公共という言葉はとても都合よく使われる。

「公共の場所だからここで眠ることはできない」とも「ここは公共の場所です。つまりみなさんの場所なので私がどうこうできるものではありません。ご自由にしてください」とも言われる。

多くの人は「自分は公共の場所の使い方を決める過程において、何の力ももっていない存在だ」という無意識の思い込みがあるように思う。しかし公共とは、個人的な思いから派生して成長するものだと考えた方が良いと思う。

この生活を始めて間も無いころに「これはあなた一人が行うプライベートなことなので、公共的に価値があるものにはならない」という批判を受けたことがある。

でも例えば何人かのグループで旅行をするときのことを考えてみるといい。街へ出て誰も行きたい場所がなかったら、それは悲惨な旅行になるだろう。誰かが何処かに行きたいというところから議論が始まる。そのあとでグループ全体が動いていく。

これと同じように公共空間も、人の個人的な行動の延長線上に生まれる。

三陸町越喜来という町で出会ったある人は、津波で流されてしまった小さな橋を、みんなが川を渡れずに不便に思っているのにいつまでも役所が直さないことに耐えかねて、名前と電話番号を添えた「自己責任でわたってください」という看板を立て、自分で重機を動かし、丸太で簡易だがしっかりとした橋をわたした(彼は建設業を営んでいる)。

するとみんなが川を渡れるようになり、便利になった。それから間も無くして、役場が予算を組んでしっかりとした橋をわたしてくれたという。東北で僕はこのような公共マインドとも呼ぶべき心をもった魅力的な人たちとたくさん会うことができた。