「雑誌の時代」幕開けに沸く新興出版社を襲った未曾有の大震災

大衆は神である(41)
魚住 昭 プロフィール

神田は火の海

南神保町の岩波書店の店員・小林勇は、地震発生時、店から300メートルほど離れた卸部(岩波の本を取次に卸す部署)にいた。本をとりに来る人たちはちょうど途絶えていた。激しい揺れに驚きながら、小林ら3人は家の中にいたが、大揺れが済んだとき路地から表へ飛び出した。(註④)

表へ出てみると、近所の家はことごとく潰れていた。砂塵があたりに立ちこめ、一瞬、恐ろしい静けさがあった。もうもうとした土煙が次第におさまって、飯田橋のほうを見ると、すべての家がつぶれて広々とした眺めになっていた。

 

小林らはものを考える余裕もなく、南神保町の店に駈けていった。途中、たくさんつぶれた家があったが、岩波書店はやや傾いただけだった。店の前に車掌も運転手もいない電車が止まっていた。「先生(岩波茂雄)は今、自転車で小石川の自宅に行った」と店の者が言った。

余震の間を縫い、店からわずかの帳簿を運び出した。女中のおせんさんは路地の奥に行って台所のガスの火をとめてきた。漱石が書いた「岩波書店」という額は、小売部の壁面から外すことができなかった。そのころすでに火が諸方から起きて、店のあたりにいるのが危険になってきた。

店員はそろって小石川の岩波宅に引き揚げた。先に帰っていた岩波は、小石川の子供たちはじめみんなが無事だったことをひどく喜んだ。卸部にいた3人は土埃のため真っ黒になっていたが、みながそれを笑う余裕がでた。庭でリンゴを食べた。

その後、もう一度、店の様子を見るために、岩波をまじえてみんなで神田のほうへ出かけた。九段の坂の上へ出てみると、神田はほとんど火の海で近づくことはできなかった。

「殺してしまえ」に「苦々しき事限りなし」

翌2日、東京では、朝鮮人が「暴動を起こした」「放火して回っている」「井戸に毒を投げ込んだ」などといった流言が広がった。焼け残った町には血相を変えた人々がいた。夜になって朝鮮人騒ぎはいよいよ激しくなった。

3日の朝、小林勇は岩波とともに日本橋方面に出かけた。焼け野原に道だけがつづき、そこをぞろぞろ人が歩いている。暑いのでみな半裸体である。朝鮮人騒ぎは一層ひどくなっていた。岩波はその騒ぎを心配し、人々の行動を憤慨した。

人形町を通り、神田の佐久間町の方へ歩いていった。ところどころの倉庫が火をふいていた。朝鮮人騒ぎはこの辺でいっそうひどかったらしい。川岸に近いところに電車が1両残っていた。小林と岩波はその中に入って一休みし、車内にいたひとりの男とこんな会話を交わした。

「えらいことでしたね」
「まったくえらいことですね」
「ここらもだいぶ朝鮮人騒ぎをしていますね」
「ええもうひどいですよ。ようやく焼け残ったところを放火されたのではやりきれませんからね」
「実際朝鮮人は放火したのでしょうか」
「ええもうひどい奴らですよ。どしどし殺してしまうのですね」
「殺したりするのですか」
「昨夜もこの河岸で十人ほどの朝鮮人をしばって並べておいて槌で殴り殺したんですよ」
「その死体は?」
「川の中や、焼けている中へ捨てました」

男は得意になって話した。岩波は、実にいやな顔をしたが、相手は気づかないようだった。道にも朝鮮人だといわれる死体がころがっており、通行人がステッキでつついたり足で蹴ったりした。

小林はノートに「こんどの惨害の中で一番不幸の目に会ったのは朝鮮の人々にちがいない。彼らも同じ人間で同じ地震にあい、同じ恐怖にさらされた。そのうえ生き残った人間に殺されるかもわからないとは何ということだ」と綴った。

同じ3日昼前、吉野作造は大学に行く途中、上富士で、巡査数十名が右往左往して「この辺に鮮人が紛れ込んだ」と狼狽しているのを目撃した。やがて朝鮮人らしき男が捕まると、民衆は手に手に棒などをもって「殺してしまえ」と怒鳴った。吉野はこの民衆の振る舞いを見て「苦々しき事限りなし」と憤り、日記にこう書いた。(註⑤)

〈此日より朝鮮人に対する迫害始る 不逞鮮人の此機に乗じて放火、投毒等を試むるものあり大に警戒を要すとなり 予の信ずる所に依れば宣伝のもとは警察官憲らし 無辜の鮮人の難に斃るゝ者少らずといふ 日本人にして鮮人と誤られて死傷せるもありと云ふ〉


註④ 小林勇『惜櫟荘主人――一つの岩波茂雄伝』(講談社文芸文庫)および『一本の道 新装版』(岩波書店)より。
註⑤ 「鮮人」とは当時多く用いられた朝鮮人の略称。一般に「不逞鮮人」のように差別的なニュアンスを帯びるが、吉野の日記の記述のように単なる略称として理解すべき場合もある。