起きそうもないことが起きてしまう、この社会ってなに?

戦後日本、封建社会、共産主義…
大澤 真幸 プロフィール

この講義の最後のほうに登場する、20世紀後半の重要な社会学者ニクラス・ルーマンは、いま述べたことと同じことを次のように語っています。ひとつの学問が普遍性と統一性をもつためには、この学問固有の主題自体を主題化するような反省の様式を組み込まなくてはならない、と。

つまり、固有の主題が成立するための条件自体を反省しなくてはならない、というわけです。

社会学の場合には、その固有の主題とは、社会秩序ですから、いま述べたように、社会秩序がいかにして可能か、ということを問い始めたとき、社会学は統一性と普遍性を獲得することになるわけです。

この場合の「社会秩序」は、非常に広い意味で考えてよい。もちろん一番の典型は、現に目の前にある社会秩序です。

たとえば、戦後日本社会が独特の精神をもっているとして、そういう社会がどうしてできたのか。あるいは、なぜ日本に封建社会があったのか、というような、過去のものでもいい。

あるいは、可能性としてのみあるような社会秩序、つまり現に起きていない、未だ誕生していない社会秩序でもいい。

たとえば、真の共産主義社会は現実には存在しないとして、共産主義という社会秩序がいかにしたら可能か、でもいい。

つまり、現実的なものも、可能的なものも、あるいは未来的なものも、過去のものも全部含めて、社会秩序についてそれがいかに可能か、可能だったのか、可能になりうるかを問う。これが社会学の一般的な主題です。

もちろん実際の個々の研究にはもう少し特定した主題があるわけですが、その主題のさらに背後にあって、一番の基底になっている、社会学というディシプリンをつくっている問いは、「社会秩序はいかにして可能か」という問いです。

だから、この問いが成立した時に、社会学が出来上がったというか、1つのディシプリンとして成熟したことになるわけです。

必然ではないけど、不可能ではない

「社会秩序はいかにして可能か」という問いは、さらに2つの部分問題に分かれます。

1つは、「個人と個人」の関係です。もう少し厳密に言えば、ある行為と行為の関係、あるいはコミュニケーションとコミュニケーションの関係です。

 

個人と個人の関係、あるいは行為と行為の関係が特有のかたちをとる。たとえば、いま私が喋っていて、みなさんはなぜかずっと黙って聞いている。そういう関係が成り立っている。これには、相当いろんな背景がなくてはありえないことです。

とにかく、ある関係が1つのかたちをつくっている。それはどうしてなのか? というタイプの問題です。

もう少し精密に言えば、こうです。それぞれの個人には、それぞれの心、それぞれの世界を帰属させることができるのに、それらの個人の間に秩序だった関係が成り立っている。

秩序があるというのは、各個人が他の個人に対してもつ予期が、何もなかったらとうていありそうもない高い確率で──許容限度の誤差を含みつつ──満たされている、ということです。そういう関係がいかにして可能なのか。

もう1つは、社会秩序の全体性と諸個人(諸行為)の関係についての問題、もっとわかりやすく言えば、「社会と個人」というタイプの問題設定です。

要素となる行為や個人は、不断にできたり消えたりしているわけです。行為は生起したらただちに消滅しますし、個人は入ってきたり去ったり、あるいは誕生しやがて死ぬ。このように要素は生成と消滅を繰り返しているのに、関係の全体としての社会のアイデンティティは保たれている。

それはどうしてなのか。

このとき、要素と全体の間にはどんな関係が成り立っているのか。たとえば、いま生きている日本人が順に死んでいっても日本社会はつづくとか、そういうときの、「要素と全体」の問題です。

さらに言うと、「○○はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。

それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探究の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。

そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。私はわりと好きな用語ですが、難しいですね。どうも日本人の日常用語にならない。ふつうの会話で「偶有性」なんて使いませんから。