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# 哲学 # 社会学

起きそうもないことが起きてしまう、この社会ってなに?

戦後日本、封建社会、共産主義…
講談社現代新書の通巻2500番、3月18日から発売される大澤真幸著『社会学史』の序文を特別公開する後編! マックス・ヴェーバーを鬱病にさせるとともに、最も重要な著作を書かせた時代の空気とは? そもそも社会学とは何を探究する学問なのか?――偉大な知の営みが頭に染み込んでいく、本物の教養体験をここから始めよう!

前編はこちら⇒ある社会学者が、急に重い鬱病を発症してから偉大な仕事をした理由

社会学的な憂鬱

さて、2つのことを言いました。ヴェーバーは30代で重い鬱になってしまった。それに関して、まず、彼の本当の意味での社会学者としての仕事は、鬱の中でこそ書かれている、と言える。

同時にその鬱は、ふつうの伝記にはヴェーバーはたまたまそういうことになってしまったと書いてあるけれど、時代のコンテキストに置いてみると、それ自体を社会現象として見ることができる

 

この2つから何が言えるか。これは1つの仮説ですから、ここから無理に一般化して類推するわけですが、時代を鬱にする理由が何かあるわけです。

憂鬱は社会現象だと言いました。19世紀から20世紀の転換期の感受性豊かな学者や芸術家を共通におそった時代の気分として憂鬱がある。つまり、時代が鬱になってしまう社会的、社会学的な原因があるということでしょう。

ヴェーバーもその病に取り憑かれ、しかもその中で、驚異的な社会学的生産力を発揮しました。そうすると、その時代を鬱にする社会学的原因と、社会学的知性を可能にするものとは、実は同じものだったのではないか、という仮説が立てられます。

鬱をつくり出しているのはもちろん社会学だけではありません。鬱をつくっている何らかの社会的な要因がある。その要因と、社会学的知性が真に成熟することとは、実は同じ根を持っている可能性が高い。

あるいは、こんなふうに言ってもいいかもしれない。ヴェーバーは職を辞すほど重い病気になって、その中で社会学をやっている。ヴェーバーは学問をやることで鬱と戦っているわけです。

だから、時代の病としての鬱に対して、それに拮抗する精神の営みとして社会学がある

これがどういうことなのかは後で考えますが、私はこれを「ヴェーバーの個人的な憂鬱」というよりも「社会学的な憂鬱」だと思っています。

実は、アメリカの批評家フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson,1934─)が、ヴェーバーを襲った鬱と、後にこの講義でも紹介することになるヴェーバー自身の「価値自由の原理」や、世紀転換期の「憂鬱の時代」とを関係づける議論をかつてしたことがあります。

私の以上の議論は、ジェイムソンの論から多くのヒントを得ています。

ともあれ、私としては、ヴェーバーに現れた症状を、「社会学的憂鬱」と見なすことができるのではないか、と考えています。このことを、社会学の歴史を考える上での1つの伏線というか、手がかりとして、最初に置いておきます。

社会学とは何か

さて、これから社会学の歴史を考えていくわけですけれども、その前に「社会学とは何か」を定義しておきます。どういう条件を満たしているものが社会学なのか。

もちろん、社会学は社会的なものについての理論ですが、それではただのトートロジーです。次のような感覚がないと社会学は難しい。

現実にいろいろな社会的な制度や、政治形態があったり、コミュニケーションのさまざまな形があったりする。そういうことは現に起きているわけです。

しかし、「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。

現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです。

現に起きているものを「あえて」説明しなければいけないと思うのは、「それがなぜ起きているのか」「起きそうもないことなのに、起きているのはなぜか?」という気持ちが前提になります。

「ありそうもないことが起きている」という感覚を、現に起きているものについてもたないと、社会学という学問にならない。

社会秩序はいかにして可能か?

もう少しきちんと言うと、こういうことです。

まず、ある学問が自立したなと認定しうる、あるいは、そういう特別な学問があると言ってよいのではないかと判断するための基準は、その学問固有の主題があるかどうかです。

社会学の場合、「現に起きている社会現象に対して、ある種の不確実性の感覚をもつ」ということがあるわけですが、では、このときどういうことが主題になっているのか。社会現象というのは、ようするに、ある社会秩序が生成したり、あるいは秩序が壊れたりしているということです。

そういう社会秩序(秩序の崩壊も含む広い意味での秩序ですから、社会秩序もしくは反秩序とでも言うべきでしょうか)がなぜあるのか? なぜ成立できているのか? つまり、「社会秩序はいかにして可能か?」。これが社会学の固有の主題なのです。