死にたくなったら「キッチンを掃除しよう」…哲学と教育の持つ力

苫野先生と「自殺」について考える
石井 徹 プロフィール

悩める人へ、苫野先生の処方箋

苫野先生の答え:おっしゃること、よく分か(るつもりでお)ります。

これは、循環論というより、自殺する/しないの分かれ目の条件は何か、という話だと思うのです。その分かれ目は、「ギリギリの自由と存在承認」が保たれているかどうか、ということだと私は考えています。

 

すると、次のステップは、いかにギリギリの自由と存在承認を確保しうるか考える、ということになると思います。

おっしゃるように、「問い」がなかったり、人を利用できるような人は、そもそもその「ギリギリ」に遭遇することが基本ないと思いますので、さしあたり考える必要はないかと思います。

そして確かに、私たちはそのギリギリの「自由」と「存在承認」を得るのが難しいわけです。

特効薬はありませんが(あるとしたら宗教でしょうか)、前にも申し上げたかもしれませんが私は次のようなことを言っています。

まず「問い」ですが、これは要するに「存在仕方」(実存)についての問いだろうと思います。特に、存在していることの「意味」の喪失が、自殺を引き起こす大きな要因かと思います。

そんな時、私は、迂遠だけれども2つの方法を紹介しています。特に、「自分が何者かわからない」、「どう生きれば幸せか、自由か、わからない」、という若者たちに言っています。

1つは、価値観・感受性を刺激するものをたくさん読み、見て、触れて、聴くことです。小説を読み、映画を見、音楽を聴く。そして大事なのは、できるだけそれについて人と対話し、何が人と通じ、何が違うのかを知ることです。

すると、自分の価値観・感受性がより深く理解できるようになり、いつしか、自分の幸せな生き方、自由な生き方がおぼろげにも見えてくるかもしれません。

若者たちと、そんな哲学対話の場を時折設けていますが、こうした対話を通して、若者たちが「生きる意味」をおぼろげにでも掴んでいくさまを何度も見てきました。

もう1つは、これは特にウツになった時の話ですが、世界から「意味」がなくなった時、「意味」が崩壊した時に有効なのが、「キッチンなどを掃除する」ことです。

変化がすぐ目に見えることをすることで、自分が世界に「意味」を与えていることに気がつくようになります。すると少しずつ、世界にまた意味の彩りが現れてきます。

これについては、先日家入一真さんがこんな記事を書いてくれていました。これも、「自殺を思いとどまる」についての大事な考えだなあと思います。

次に存在承認については、まさに親、友人など、幸運に恵まれる必要があると思います。

ですが同時に、いえだからこそ、保育士や教師が、承認の「最後の砦」であるべきだと、私はずっと言っています。

あと、先ほどの「価値観・感受性の交換対話」も、自分と価値観・感受性を共有できる人を見つけ出すいいきっかけになると思っています。それは存在承認を得られるいい場だろうと思います。

「哲学対話」の機会には、そんな悩める若者たちがたくさんやってきて、そしてそれなりにいい仲間を見つけています。そんな機会を、増やしたいなあと思っています。