死にたくなったら「キッチンを掃除しよう」…哲学と教育の持つ力

苫野先生と「自殺」について考える
石井 徹 プロフィール

それでも、「自由」も「存在承認」も得られない時は…

石井の質問:また疑問が生じたのでお答え下されれば幸いです。

以前、先生にお伺いした時、生きたいように生きる自由と、全面的な存在承認が自殺を防げるとおっしゃっています。最初、これらの言葉を聞いた時ホッとしました。

 

しかしずっと考えておりましたが、①生きたいように生きる自由と②全面的な存在承認の二つを得るのは難しいのではないかと思えてきました。

①については、そもそも「問い」が生じてしまった人間はどう生きていったらわからないのです。

例えばオレは東大法学部に言って威張りたいんだという単純明快、かつ単細胞な価値基準の人なら生きたいように生きる自由は非常にわかりやすいのです。

しかし、人生に「問い」が生じてしまった人間は、「それでいいのだろうか。偉くなることが生きることなのだろうか」と悩んでしまう。「自由」をどうやって得ていいのかわからないのです。私はもう60歳ですが未だにわかりません。

②の全面的な存在承認ですが、これは端的に言うと、親友とか同志を得ることだと思うのです。そうでなければ親、もしくは親のような存在を得ることになるかと思います。親は置いといて、他は非常に難しいのです。

中には友達なんかいらないとはっきり言う人もいます。非常に幸せな人たちです。こういう人は自己肯定感が半端じゃありません。自分で自分のことを全面的に存在承認しているのですから幸せです。

しかし異常です。みんな大抵の人は共同体意識があります。誰かの世話にならないと生きていけないし、世話もしています。それが意識的であろうが無意識であろうが、誰かと関係をもっている。

ところが友だちが要らないという人を観察していると、他人に世話になっていることを意識していないようです。

むしろ他人が親切にしたら「こいつバカじゃないの。自分の得にもならないのに」という感じで他人を利用しています。迷惑な話ですが、こういう人が正直羨ましいのです。損得勘定だけで生きていけるからです。

「問い」が生じてしまった人はこんな非常識な行動や思考しません。そうすると元に戻って他者に全面的な存在承認を求めたくなります。

「自殺」の解決は「自由」と「存在承認」というのは理解できます。確かにそれらがあれば死のうなんて考えないでしょう。しかし、それらが得られないから死を選ぶわけで、これでは循環論になってしまう気がします。私の解釈は哲学的に間違っているのでしょうか?