死にたくなったら「キッチンを掃除しよう」…哲学と教育の持つ力

苫野先生と「自殺」について考える
石井 徹 プロフィール

哲学の持つ、「漢方薬的」な力

石井の質問:先生、ということは「自殺するな」と明確に言っているのは、哲学ではなく宗教なのでしょうか? 

 

さらに、あと2つ質問があります。

1つ目は、「可能性」や「存在承認」をしてくれる人の見つけ方です。

自殺防止には「可能性」や「存在承認」が必要であるということでした。しかし本人は「可能性」がないと思っております。また「存在承認」には他者の存在が必要かと思います。

「可能性」にしても「存在承認」にしても簡単に言うと「友達」の存在が必要だと思います。「友達」といっても広く家族、親戚のオジサンなども入ると思います。こういう人がいれば、そしてその人が「可能性」や「存在承認」を示してくれれば、自殺しないのではないかと思います。

強い意志があれば、世の中から自己自身で「可能性」を見出すでしょう。自ら「存在承認」をするかもしれません。ですが、そういう人は極めて稀でしょう。

結局、どうしたら「可能性」や「存在承認」をしてくれる人、つまり親友を見つけるかが課題のような気がします。それが哲学書には書かれていないように思えるのです。もし書かれていたらお教えください。

2つ目は、教育者としての「自殺」の考え方です。

哲学ではハッキリと自殺を否定できないことは理解しました。若干、哲学の無力感を感じます。しかし先生は哲学者であると同時に教育者です。教育者のお立場ではどうやって生徒の「自殺」を止めますか?

苫野先生の答え:そうですね。「自殺をするな」ということについて、まさにキリスト教は、自殺を禁止していますね。ショーペンハウアーの頃から、そのキリスト教に反旗が翻され始め、ニーチェによって頂点に達します。

私は、「自殺は哲学的に否定できない、それは人間の自由の最後の選択肢だから」というのは、哲学の無力というより、確かにそう考えるほかないという意味で、「原理的な考え」と言えるかなと思っています。

苫野一徳氏

ちなみに哲学のいう「原理」とは、いわゆる「原理主義」の「原理」とは違って、むしろその反対に、誰もが納得せざるを得ない考え方のことです。哲学はそのような意味での「原理」を探究する「原理の学」なのです。 

宗教は、「信じる」ことで成り立つ「命令の思想」です。それが効く場合もあれば、かえって無力である場合もあると思います。人は「命令」されても、必ずそれに従えるわけではありません。信じる人には効くけれど、信じない人には効かない、ということです。

対して哲学では、自殺は原理的には否定できない。しかし、思いとどまる可能性があるとしたらその「条件」は何かと考えます。『はじめての哲学的思考』では、これを「『命令の思想』から『条件解明の思考』へ」と呼びました。

というわけで、哲学的にはこうなると思います。

・自殺は否定できない。それは人間の自由の最後の選択肢だから。
・でもそれを思いとどまる条件はある。
・その最大の条件は、他者からの「存在承認」である。

そこで石井さんからのご質問ですが、確かに、「存在承認」してくれる人の見つけ方、といった哲学はないかもしれません。

それは、このテーマがかなりプラクティカルな次元のものだからだと思います。哲学は「原理の学」ですので、たとえば人生のハウツーを考えるのではなく、そうしたハウツーの土台を敷くものだとお考えいただければと思います。

私は、自己啓発などのハウツーが即効性のある(でも長持ちはしないかもしれない)薬だとするなら、哲学は基礎体力を作る漢方薬のようなものと言っています。

その上で二つ目のご質問ですが、私が学生の自殺を止めるとするならこう言います。

自分もウツになって自殺を図ったことが何度もある。でも、今は幸せに生きられている」。これは何度か言ったことがあります。実際の話なので、それなりに説得力があるようです。

もっとも、緊急の場合でしたら、縛り上げてでも学生の自殺は止めます。