「驚くほど似ていた」大正時代と“ナチス前夜”のワイマール共和国

「大正浪漫」の繁栄は露と消え……
根本 正一 プロフィール

大隈重信内閣が開けた「パンドラの箱」

日本は朝鮮を巡る対立から起こった日清戦争(1894年=明治27年)に勝利すると、欧米列強とともに、弱体化した清国で要地を租借し、鉄道敷設権や鉱山開発権の獲得を競った。そして満州への南下政策を進めるロシアとの日露戦争に勝利、韓国における指導権を握り、関東州においては旅順・大連の租借権を得る。

ここに関東都督府や南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置され、この大陸経営方針は大正時代を通じても変わっていない。

第一次大戦ではドイツの中国における根拠地の青島や、ドイツの領有していた南洋諸島(カロリン・マリアナ・マーシャル諸島)を占領。この勢いを駆って、大隈重信内閣(第2次)は1915年(大正4年)、清朝が打倒された辛亥革命(1911年)から間もない混乱状態にある中国に対して大陸における広範な権益を認めさせる21ヵ条の要求を突きつける。

これが、中国民衆の反日感情を高め、欧米列強の日本に対する警戒心を強めることとなる。

早稲田大学を創設した大隈重信は、明治時代から自由民権運動の推進者として国民的人気も高かった。立憲改進党(その後進歩党)を結成し、自由党の板垣退助と組んで第1次大隈内閣(隈板内閣)を成立させている(1898年=明治31年)が、両雄並び立たずこの日本初の政党内閣は4ヵ月余りの短命で終わっている。

第2次大隈内閣は第一次大戦の戦争景気に支えられたが、対華21ヵ条要求という強行突破策は、その後の稚拙な日本外交の先鞭をつけたものでしかなかった。

このころから日本は朝鮮における三・一独立運動(1919年=大正8年)や、中国における五・四運動(同年)など排日運動に直面するようになった。

また、ロシア革命に反発する欧米列強とともにシベリア出兵(1918年=大正7年)を断行したが、大陸での権益拡大を求めてなかなか撤兵しようとしないことに、アメリカが反発、アメリカとの関係悪化はこのころから始まっている。

大陸での日本の権益拡大に反発を強める中国、それを牽制するアメリカ、そして革命輸出を目論むソ連と、日本は国際外交の難局に立たされることとなった。

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しかし、日本のこうした帝国主義的政策に対する批判は、一部の知識人層を除いては、国内ではほとんど声とならなかった。護憲運動に熱心だった新聞も然りである。

逆に、日本ファシズムの理論的指導者、北一輝のように日本をアジアの盟主として欧米の侵略から解放し、天皇中心の国家主義を標榜する思想が国民の心を捕えていく。

哲学としても、西田幾多郎をはじめとする京都学派に代表されるように、西欧近代主義の矛盾を克服すべく、日本固有の東洋的な神秘性を中心に据える思想が、その後の国体思想の理論化に間接的に貢献する流れをつくっていく。ワイマール共和国においてシュペングラーやハイデガーが、自国の歴史に特別な意味を持たせていった論理と相通ずるものがある。

したがって、盛り上がった民衆運動もいつの間にか萎んでしまう。大戦景気は多くの成金を生み出すとともに、それをはるかに上回る庶民の生活の窮乏を引き起こした。出稼ぎ労働者としての女工の過重労働と健康被害が問題となった。資本主義社会の矛盾を説いた経済学者、河上肇の『貧乏物語』がベストセラーとなった。

そして、大戦好況のもとで米価が急騰したことが、1918年(大正7年)の米騒動につながった。富山県の一漁村の主婦たちが米屋などに米を安く売ってくれるよう押し掛けた(女房一揆)のを引き金に、貧窮を極める都市の労働者層にも運動が広がった。そこには専制的な政府に対する民衆の反抗心があり、政府はその後、大衆運動による秩序崩壊を怖れて言論統制を強めていく。

普通選挙法の成立した10日前には、悪法として有名な治安維持法も成立している。過激な社会運動を取り締まろうと、国体の変革や私有財産制度を否認する結社の組織を禁じたものだ。第2次護憲運動を経て成立した護憲三派による加藤高明内閣のもとでだが、いったい政党は何を考えていたのか?

政党内閣は首相の多くが暗殺された

大正時代は政友会と憲政会が二大政党で、前半は政友会が、後半は憲政会が優勢となっている。この両者を含めた護憲三派内閣が普通選挙法を成立させたのも、社会主義と結びついた民衆運動の高まりによって体制が崩壊することを恐れたためと言われる。

政治の民主化を徹底して推し進めようとの気概を持たなかった点は、ワイマール共和国における政党と変わらない。政治家が基本的に国民を信頼していない。

政党人にとっては帝国主義政策も含めて少しでもリベラルな態度を取ると、暗殺されかねない風潮となっていた。現に、政党内閣の首班の多くが凶弾に倒れている。初の本格的政党内閣と言われた原敬は、皇太子婚約問題などで右翼の怒りを買った。

原から政友会総裁を引き継いだ高橋是清(政党色は薄いが)は、昭和になってからだが、二・二六事件(1936年=昭和11年)で惨殺されている。加藤高明内閣から昭和初期にかけて5人続いた政党内閣では、ロンドン軍縮条約に調印した浜口雄幸が狙撃され(1939年=昭和5年)、最後の犬養毅は五・一五事件(1932年=昭和7年)で国体変革を狙う青年将校らに暗殺された(加藤高明は在任中に病死)。

政党は党勢の拡大を第一義として、対立政党の追い落としに躍起となっていた。そのためには地方の利権とも結びつき、軍閥や財閥との提携も辞さず、政党の院外団は暴力的な側面も兼ね備えていた。それをよく示すのが、政友会総裁として政党内閣の一翼を担った陸軍大将の田中義一である。