「驚くほど似ていた」大正時代と“ナチス前夜”のワイマール共和国

「大正浪漫」の繁栄は露と消え……
根本 正一 プロフィール

大衆文化の到来、大都会を楽しむサラリーマン

大正時代の光の部分としての自由を謳歌する精神は、知識人階層ばかりでなく、産業の高度化と政治の民主化のもと育まれた中間層全体の意識でもあった。

武者小路実篤や志賀直哉ら白樺派が、人道主義の立場から、人間が個性を発展させることが人類社会の発展にもつながる、と楽観的ではあるが人間性への信頼を唱えたのは、一つの時代精神であった。

日露戦争(1904-5年=明治37-8年)を機に重工業を中心に第二次産業革命を成し遂げた日本だったが、その後は慢性的な不況に悩まされる。しかし、第一次大戦勃発によって交戦諸国への輸出が増大し、日本は未曽有の繁栄を享受。日本の強みであった軽工業の生糸・綿布などの輸出増大に加え、製鉄・造船など重工業の発展をみた。そして鈴木商店(神戸)など多くの戦争成金を生んだ。

産業の発展とともに、現在につながる四大工業地帯が形成され、東京や大阪の巨大化を生み、周辺に産業都市も出現、横浜や神戸など港湾都市も発展した。東京では丸の内にオフィス街が形成され、サラリーマンは山の手に移り住み、国鉄・私鉄とも発達して新宿や渋谷が副都心として発展する。

ターミナルを中心にデパートも進出する。後藤新平内相が取り組んだ、関東大震災からの帝都復興も目覚ましいものがあった。大阪では阪急の小林一三が、郊外に住宅地を開発し、都心と電車で結び、ターミナルにデパートを開設するこのビジネス手法を先取りした。

大正時代にはワイマール共和国と同様にサラリーマンが急増、大正中期には公務員を含めたホワイトカラー層が就業者全体の2割以上に達していたとみられる。彼らは大都会の街角で娯楽を楽しんだ。

レストランやカフェで飲食し、銀ブラで買い物を楽しみ、新劇や映画を鑑賞し、ダンスホールで踊りまくる――。「今日は帝劇(=帝国劇場)、明日は三越」と言われた。「モダンボーイ」(モボ)、「モダンガール」(モガ)という言葉も生まれた。1925年(大正14年)には東京六大学野球リーグ戦も開始、早慶戦が大衆の人気の的となる。

メディアの発達も目覚ましい。映画が本格的に制作され、ラジオ放送も1925年(大正14年)に始まった。群雄割拠状態にあった新聞は再編され、大部数を誇る現在の新聞業界の素地がつくられた。

その新聞小説によって、中里介山の時代小説『大菩薩峠』など大衆文学も開花した。同時に中間層向けの雑誌も次々と創刊され、『文芸春秋』や『キング』(講談社)がブームを呼んだ。

連載第1回でワイマールで花開いた大衆文化について触れたが、それと似た「文化の繁栄」が日本でも見られたのである。

護憲運動の結実した普通選挙法成立

政治的には、大正時代は議会政治の確立を目指す憲政擁護運動(第1次)を以て始まる。1889年(明治22年)に発布された明治憲法のもとでは、国民主権のワイマール憲法と違って天皇主権であることはもちろん、政府は政党や議会から独立していた。

明治の元勲として天皇を補佐していた元老、彼ら元勲など顧問官で組織された天皇の最高諮問機関としての枢密院、それに皇族・華族と多額納税者など勅任議員から成る貴族院が、天皇大権のもとに首相を選任する時代が続いていた。

民主的なワイマール憲法のもとでは、内閣を超越する大統領(国民の直接選挙によって選ばれるが)に非常時における大権(国会解散権や首相任命権)を付与したことが、ヒトラーの台頭につながったという経緯がある。

当時は山県有朋の長州陸軍閥から出た桂太郎と、伊藤博文の後を受けて立憲政友会総裁となった華族の西園寺公望が、交互に首相を務めていた(桂園時代)。護憲運動は薩長を中心とする藩閥政治から脱却して、政党が中心となって内閣を組織する政党政治への移行を目指すものだった。それが結実したのは、1918年(大正7年)に初の本格的な政党内閣として誕生した原敬内閣で、閣僚の大半を政友会員が占めた。

原敬/photo by Gettyimages

だからといって、政党政治がそのまま根づいたわけではない。元老の山県有朋は1922年(大正11年)まで存命で、政党政治の性急な進展にブレーキをかけた。

軍部や官僚の主導による内閣に逆戻りしたことで第2次護憲運動が起こり、加藤高明(憲政会)を首班とする護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)のもとで、1925年(大正14年)に普通選挙法も成立した。25歳以上の全ての男子に選挙権が付与された(女性に選挙権を与えないで、普通選挙法と呼ぶのは不思議だが)。

ただ、1919年制定のワイマール憲法が20歳以上の全ての男女に選挙権を付与したのに比べると、民主主義の動きはまだ遅々としたものだった。

ドイツでは鉄血宰相と呼ばれたビスマルクの主導した19世紀の第二帝政時代にすでに25歳以上の全ての男子に選挙権を与えており、それが社会主義者などの弾圧と一体となった「アメとムチ」政策であったことを考えると、大正時代に強く残る権威主義体制はビスマルク体制に近似する部分も多い。

ビスマルク/photo by Gettyimages

「大正デモクラシー」と命名されるように、民主主義的な思想も発展した。憲法学者の美濃部達吉が、統治権の主体は国家にあり、天皇はその一機関に過ぎないと、天皇の権力を相対化する天皇機関説を打ち出したのが大正初めである。

さらに政治学者の吉野作造は、人民主権の「民主主義」に対し、政治の提要は人民の福祉の向上にあるとする「民本主義」を唱えた。つまり、民衆の意思がきちんと政治に反映されれば、主権がどこにあろうと大した問題ではないということだ。両者とも天皇主権を唱える明治憲法のもとでも議会制民主主義をぎりぎりまで推し進めようと、苦肉の論理構成を試みたものとみえる。

しかし、長年かけて築き上げた政党政治は根を下ろさず、昭和に入ると軍人内閣に取って代わられる。そこには大陸における権益を巡る国際情勢の厳しさが反映しており、国際社会において孤立を深めるようになった事情が関係している。

そこで、次に大正時代の影の部分を浮き彫りにしてみよう。