「驚くほど似ていた」大正時代と“ナチス前夜”のワイマール共和国

「大正浪漫」の繁栄は露と消え……
根本 正一 プロフィール

「自由恋愛」と大杉栄・伊藤野枝

大正時代は明治時代に根強く残っていた封建的なしがらみから脱却して、人間の自由な意思を尊重する思想が根づいてきた。ワイマール共和国と同様、特に女性の社会進出は目を見張るものがある。

大正時代は女性を対象とした専門学校が数々設立され、都市と産業の発展に伴いエレベーターガールや電話交換手など様々な「職業婦人」が誕生した。

そうした近代意識に目覚めた知識人女性たちは、「自由恋愛」を標榜していた。まだ「姦通罪」の存在した時代であったが、その法の網をくぐり抜けながら恋愛を繰り返す奔放な彼女たちを世間は糾弾した。

新劇(=西洋劇)の源を築いた、島村抱月の結成した「芸術座」で一躍大スターとなった女優松井須磨子は、二度の離婚の末に抱月と不倫関係に陥り、抱月の病死を受けて後追い自殺をしている。新しい女性の生き方を掲げた文芸雑誌『青鞜』を発刊した平塚雷鳥も、数々の男性遍歴を重ねている。

その雷鳥から『青鞜』の編集を受け継いだ伊藤野枝も、負けてはいない。故郷福岡県で親に勝手に決められた婚約を破棄すると、東京で英語教師と同棲を始める。そのころからアナキズム運動に共鳴し、ちょうど世上を騒がせていた足尾銅山の鉱毒事件にいきり立つと、理解を示さない夫を捨てて、婦人解放運動を通じて知己を得た大杉栄のもとへと走る。

しかし、男の側の大杉も「自由恋愛」を信条としていたため、トラブルが生じる。社会主義者堺利彦の義妹とすでに結婚(入籍はせず)していて、『青鞜』に関係していた神近市子(戦後、衆院議員を務める)とも愛人関係にあった。そこに割り込んできた野枝に神近が嫉妬、葉山(神奈川県)の旅館で大杉を短刀で刺し、重傷を負わせる(日蔭茶屋事件)。神近は殺人未遂容疑で起訴され、2年間服役する。

その泥沼の愛憎劇を制した野枝は大杉と同居を始め(入籍はせず)、5人の子供をもうける。しかし、反政府運動を続ける二人は、常に監視の網の中にあった。2人の人生が暗転したきっかけは、関東大震災だった。

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震災から半月後の1923年(大正12年)9月16日、夫妻は鶴見に住む大杉の弟を見舞ったあと、6歳になる甥を連れて東京へ帰ったが、そのまま行方不明となり、騒ぎとなった。3人は張り込んでいた憲兵隊に強引に連行され、憲兵隊本部構内で扼殺されたのだった。

子供を含めた3人の遺体が構内の古井戸から発見され、甘粕正彦憲兵大尉らが違法行為で軍法会議にかけられた(甘粕事件)。しかし、事件の背後関係は曖昧なままに処理されてしまった。甘粕は3年ほどで仮出所し、その後は国策の映画会社、満州映画協会(満映)理事長にまでなっている(終戦時に服毒自殺)。

関東大震災を機に広がったテロの応酬

関東大震災自体は死者・行方不明合わせて10万人以上を出した自然災害だが、災害に伴う民衆の絶望は往々にして得体が知れないと感ずる存在への恐怖へと向かう。敗戦後のワイマール共和国においてはそれはユダヤ人や社会主義者であったが、関東大震災後の日本においては朝鮮人と社会主義者であった。

「朝鮮人が火事を起こした」「朝鮮人が井戸に毒薬を投げた」との流言が瞬く間に広がり、各地で官憲や民間の自警団などによって多くの朝鮮人が虐殺された。朝鮮人は韓国を併合(1910年=明治43年)した日本人を深く恨んでいるはずだ、との潜在意識が働いたかもしれない。

この混乱を機に軍隊は秩序回復と称し社会主義者の徹底的弾圧に乗り出し(亀戸事件など)、「社会主義者が朝鮮人を先導している」といった新たな流言も生まれた。当然、国際社会からも批判を浴びたが、政府はそうした批判を封じ込めるために言論統制にも乗り出した。

社会主義運動は天皇暗殺を計画したとして幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件(1910年=明治43年)から冬の時代に入ったが、大正も後半になるとロシア革命(1917年)の勢いもあって息を吹き返していた。テロによる革命を狙う一群もあり、この大杉栄夫妻の虐殺事件を機に左翼と右翼によるテロの応酬へとつながっていく。

右翼は3人の告別式直前に、大杉の遺骨を奪い取るという挙に出た。その直後、大正天皇の摂政になっていた皇太子(後の昭和天皇)の乗った車が、震災後の暴力行為に怒りを覚えた無政府主義者の青年に狙撃されるというテロ事件が起きた(虎の門事件)。

大杉栄・伊藤野枝夫妻の生涯にみられるように、大正時代はワイマール共和国に似て、個人が自由に生きようとする精神を、国家の名のもとに全体主義が凌駕していく過程でもあった。