歴史学を元気に——いま目指すべきは新しい「歴史観」の提示である

<日本史のツボ>のツボ 第1回その③
〝本物の歴史の学び方〟を教える、東大教授・本郷和人氏の連載「<日本史のツボ>のツボ」がスタート。第1回(その①・その②・その③)では、「学問としての歴史学とは何か?」を4つの手順にしたがって解説します。

第1回 その①はこちら→ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59982

第1回 その②はこちら→ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60224

「歴史家」とはどんな人か?

さて、いよいよ最後の段階です。歴史学の4つの手順、今回は④を解説します。

① 史料を集め、解読する。(歴史資料を史料と呼ぶことにします)
② 史料に基づいて、史実を復元する。(歴史事実の確定)⇔ 歴史研究者
③ 史実を配置しながら、史像を構築する。(歴史像の呈示)⇔ 歴史学者
④ 史像を蓄積して、史観を編み出す。(歴史観を世に問う)⇔ 歴史家

④ 史像を蓄積して、史観を編み出す(歴史観を世に問う)

「史像」を自在に創造できるようになったら、その先にはそれを蓄積し、歴史観、すなわち「史観」を編み出すという大きな仕事が待っています。

ここで大切になるのは「整合性」です。

「史像」を同一のベクトルのもとに配列し、コアを作る。そしてそれを演繹して、時間軸を読み通し、あるいは別の領域での読み解きを試みる。

またその作業の一方で、史料の捜索や読み直しを不断に行って新しい「史像」の構築を試み、その成果をこれまた「整合的に」コアに帰納して、自身の考えを補強・拡張していく――こうした作業に飽くことなく従事できる人こそ、「歴史家」と呼ばれるにふさわしい。

 

ぼくごとき浅学が先達の仕事に言及するのは、まずもっておこがましいことですが、「ああこの方の業績はすごいな」、と賛嘆し仰ぎ見ていると理解していただいた上で述べさせて頂くと、戦前の皇国史観を否定して登場した唯物史観とは別に、独自の史観に到達された中世の研究者として、少なくとも次の5人の方はまず、挙げることができると思います。

永原慶二先生、黒田俊雄先生、網野善彦先生、石井進先生、五味文彦先生。

日本中世史研究の偉大な「5人組」

永原先生のお仕事の理解については、ぼくもまことに自信がありません。だからその歴史観には、敢えてここでは呼称を付さないでおきます。ともかく、先生の仕事は豊穣です。時代・領域ともに多岐にわたり、多くの学者の前に立ちはだかる壁となる。

学者の業績は後進に受け継がれ、敬意を以て乗り越えられるところに意義があるのだとすると、永原先生のお仕事がまさにそれに当たります。現代の中世史学の確固たる基礎を築いた学者、それが永原先生だったのです。

黒田先生の「史観」と言えば、もう間違いなく「京都史観」となるでしょう。戦前・戦後を通して、中世は「武士の時代」と捉えられていました。だから鎌倉時代、室町時代、さらには江戸時代という名称がある。幕府の所在地で時代を表現したわけです。

この「常識」に対して、いやいや、日本の歴史の中心にいたのは天皇であり、政府とは朝廷であり、みやこは京都だったでしょう?と、再確認を迫ったのが黒田先生でした。

鎌倉ではなく京都に視座を定めると、歴史はどう見えるのか?――だれも成功しなかった、寺院勢力の位置付けを進めながら、中世(中世といえば、それまでは「分裂」が代名詞だったのですが)日本の「統合」の側面を強調されました。

網野先生は、ぼくの命名センスがなくて申し訳ないのですが、いわば「2倍史観」でしょう。

「百姓は農民ではない」――先生が好まれた講演タイトルです。正確を期して言葉を補うと、「百姓は農民だけとは限らない」。

百姓といえば、私たちはひとところに定住し、農作業に従事している姿を思い浮かべます。しかしそうではない。農業をする傍ら、漂泊しながら商売をし、現金収入を得ていた(ゆえに私たちの想定よりも富裕な)百姓が多くいた――古文書は主に定住する農民について作成され、後世に残ります。

残りづらかった史料を注意深く凝視することにより、中世社会はこれまでの2倍の、豊かな姿を見せてくれる、そう網野先生は説かれました。