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承久の乱とは何だったのか?「暗記」の歴史から「考える」歴史へ

<日本史のツボ>のツボ 第1回その②

〝本物の歴史の学び方〟を教える、東大教授・本郷和人氏の連載「<日本史のツボ>のツボ」がスタート。第1回(その①・その②・その③)では、「学問としての歴史学とは何か?」を4つの手順にしたがって解説します。

前回記事(第1回 その①)はこちら
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59982

承久の乱とは何だったのか?

〈その①〉でご説明したように、歴史学という学問は、おおまかに次の4つの手順で進めていきます。

① 史料を集め、解読する。(歴史資料を史料と呼ぶことにします)
② 史料に基づいて、史実を復元する。(歴史事実の確定)⇔ 歴史研究者
③ 史実を配置しながら、史像を構築する。(歴史像の呈示)⇔ 歴史学者
④ 史像を蓄積して、史観を編み出す。(歴史観を世に問う)⇔ 歴史家

前回記事では①、②を解説しましたので、今回はその続きです。

③の1 史実を配置しながら、史像を構築する。(歴史像の提示)

歴史学の体得を目ざす者は、史実を復元する確実な手腕を身につけると、次にはひとまとまりの歴史の像、史像を形作ることを試みます。これが大学院の修士・博士課程の段階で学ぶべきことです。

 

承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇が御所に兵を呼び集め、「北条義時を討て」という上皇の命令、院宣が下されました。世にいう「承久の乱」の始まりです。

鎌倉幕府はこの情報をキャッチすると直ちに御家人を招集し、朝廷の軍勢に抗うことを決めました。鎌倉に籠城する案、京都に攻め上る案が出されましたが、大江広元・三善康信ら京都を熟知する文官の意見が採られ、幕府軍は東海道、東山道、北陸道の三手に別れて京を目ざします。

幕府の歴史書である『吾妻鏡』は鎌倉方の軍勢を19万と記します。だが、この数字をそのまま用いては、史実の復元作業に疑義をもたれても仕方がないでしょう。

ぼくが中学生の時に購入し、後にそれが皇国史観なるものであることを知ってあわてて古本屋に売却した平泉澄先生の『楠公――余香を拝す』(確か、そんなタイトルでした)という本は、楠木正成が守り抜いた千早城に100万の幕府方が攻め寄せたと軍記物語にあるが、これは史実を反映した数字だと、怪しげな考証を延々と展開していました。

これを「トンデモ」と断じない研究者は現代には存在しないでしょう。しかし、『吾妻鏡』の数字を史料批判せずに使ってしまうのは、この、戦前の皇国史観と同様の行為ではないでしょうか。

20万近い軍編制は、豊臣秀吉の時期にはじめて出現するものです。兵を集めるには強力な権力が必要になりますが、鎌倉幕府の支配力と豊臣政権の支配力が同等であるとは、まずもって考えがたい。

つまり上記の平泉先生の判断は、軍事の初歩を押さえておらず、②(史実の復元)ができていない、そう批判されるべきなのです

ぼくは朝廷軍2000あまり、幕府軍は1万5000あまりと考察していますが、圧倒的な兵力の幕府軍は各地で朝廷軍を撃破し、6月14日夜に京都になだれ込み、乱は終結を迎えます。

鎌倉幕府のとらえ方

ある見方によれば、先述した院宣には「北条義時を討て」とあるので、後鳥羽上皇は幕府の存在を否定してはいない。義時を討つこと、あるいは北条氏を討つことが目的だった、といいます。

しかし、果たして本当にそうでしょうか? 歴史学にまじめに携わっている研究者なら、むしろこの発想は「すじが悪い」と、ア・プリオリに感じるのではないでしょうか。

もともと、幕府という言葉自体、この当時にはまだ使われていませんでした。だから後に後醍醐天皇が倒幕を指令したときにも「北条時政の子孫の北条高時を討て」という文言を用いています。この事実が如実に物語っているように、「北条義時を討て」と命じた後鳥羽上皇の真意は、「鎌倉幕府を滅ぼせ」、であったはずなのです

ただし、このことをより確実に立証するためには、北条義時の軌跡を追わなければなりません。

では、卓越した指導者であった源頼朝の没後、義時はいかなる政治抗争を繰り広げたのでしょうか。

まず父の時政とともに、2代将軍・頼家の「第一の郎党」であり、幕府の侍所(軍事の役所)を掌握する梶原景時を失脚させました。ついで、頼家の外戚である比企氏を謀略で滅ぼし、後援を失った頼家を排斥しました。

さらには頼家に代わる第3代将軍・実朝を擁して「執権」の座を得た北条氏は、幕府の基盤である武蔵国への進出を目指し、同国随一の勢力を誇る畠山重忠を討ちます。

またこの時点で父の時政と袂を別ち、時政を隠退に追い込むと同時に、源氏第一の名門・平賀家を滅ぼします。幕府の政所(政治の役所)の長官の地位にあった義時は、梶原景時失脚の後に侍所の長官職に(名前だけ)返り咲いていた和田義盛も討って侍所も掌握し、政治・軍事の頂点に君臨しました。

こうして、貴種としての源氏はもはや用済みとなり、実朝ほか、頼朝の血統を引く者は粛清されることになったのです。