世界中が衝撃を受けた「戦争広告代理店」の実態と教訓

そしてトランプは何を変えたのか?
伊藤 剛 プロフィール

ちなみに、彼は「事実」をもとに戦略を練ってはいるが、クライアントに有利になる情報だけをセレクトし、万が一その逆の情報が存在していたとしても、それは黙殺する。当然のことだ。

なぜなら、彼は「ジャーナリスト」ではなく「PRマン」であり、依頼主に利する戦略を考えるのが彼の専門性だからだ。「情報の死の商人」と表現した高木の文章には、次のような続きがある。

銃弾が飛び交う戦場からはるかに離れたワシントンで、ファクスや電話(現在ならインターネットや電子メール)を使って国際世論を誘導するそのやり方には、倫理上の疑問が残る。

しかし、このような情報戦争という事態を完全に規制しようとすれば、結局のところ政府などの権力が情報を統制支配する社会にするしかない。それを私たちが望んでいないのは自明のことである。

それ(PR情報戦)が「いいことなのか、悪いことなのか」を問うことも大切だろう。しかし、その答えを私はまだ得ていない。

ただ、「言論の自由」や「報道の自由」「表現の自由」を、かつては想像もつかなかったほどのメディア環境の劇的な発達とグローバル化をみた現在において守ろうとするなら、「情報戦」の進展という要素を排除することは不可能と言ってよい。

はっきりしていることは、「PR戦争」の倫理を問い、その答えを見つけ出すまで、現実のさまざまな「戦場」で戦っている人々、そして日本という国、そこに住むわたしたち国民が待っている余裕はもうない、ということである。

高木が強烈に自覚しているのは、まさにこの「表現の自由」や「報道の自由」の“ルールの徹底”だ。おそらく今回の事例を最初に発見したのが市民団体やNPOなどであったなら、「情報戦=悪」との構図で糾弾されて終わっていたかもしれない。

〔PHOTO〕gettyimages

しかし、高木は長らくメディア業界で情報を扱ってきたプロフェッショナルである。

一方側に有利な情報のみを集めたプレスリリースが作成されたからといって、受け取ったメディアはその情報を鵜呑みにしてそのまま記事にするわけではない。必要であれば裏をとる(情報の信頼性を調べること)し、記事にするかどうかの「選択」は常にメディア側が持っている。

 

だからこそ、PR会社の存在を端から否定してしまえば、「情報の目利き」としてのメディアの存在自体も否定することになる。高木のスタンスには、そんな「ジャーナリストとしての矜持」が一貫して表れている。

「ハーフ氏に会う以前から、メディアを利用して情報を載せようとする業界に対しての拒否感はあまりなかったです。というのは、メディアは多かれ少なかれ利用したりされたりするものですから。

むしろ、そんなつもりがなく情報発信している人の方が扱いが難しいですよね。それよりも、彼のように堂々と『PR会社』と看板を掲げている方が、潔くて分かりやすい。

もちろん鵜呑みにはしませんし、有用な情報があれば裏を取って使うこともあります。つまり、取材する『最初のきっかけ』は何でもよいわけなので、僕は問題ないと思っているということです。

『民主主義』『報道の自由』というルールに則った人たちが行っていることですから」

情報戦はルールチェンジしたのか?

ところで、高木の描いたボスニア紛争は、インターネットも普及していなかった90年代中盤の時代だ。それから20年以上の月日が流れ、メディア環境は大きく変化を遂げた。

私たちの日々の暮らしも、AIやIoTなど情報産業の話題で持ちきりだ。まるで「情報津波」とでも言うような超情報社会の中で、溺れぬように必死で泳ぎ続けている。

そんな劇的な変化の中で、政治や戦争における情報戦にも新たなイシューが発生している。「SNSの普及」と「トランプ現象」によって浮き彫りになった2つのイシューだ。

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一つは、SNSの普及によりあらゆる情報が加速度的に拡散され、天文学的に増加した情報量の中で発生した「フェイク・ニュース(嘘のニュース)」という存在だ。2016年のアメリカ大統領選挙時に、ヒラリー候補に関するフェイク・ニュースが大きな注目を集めた。

そして、後のトランプ大統領の出現は「情報戦のあり方」そのものを変容させた。政策的な批評はさておき、彼のメディア・リレーションの手法には目を見張るものがある。

本来は味方にすべき国際メディアを敵にまわし、一方的に批判するというのは、高木が描いた「国際メディア情報戦」のセオリーには完全に反するアプローチだ。

極めつけは、「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」の言葉を誕生させたことである。

これは、大統領就任式に集まった民衆の数が「過去最大だった」と自画自賛したトランプ大統領側が、明らかに嘘ではないかと批判を受けた際に「もう一つの事実が存在する」と応酬したものだが、論理的には完全に破綻している。

しかし、それがなぜかまかり通ってしまう現状。一体、今何が起きているというのか。