岩波、中公、講談社…大正の出版社に集まった傑物たちの個性を見よ

「道義の人」に「野人」…
魚住 昭 プロフィール

吉野は『中央公論』に独立の論文を発表する以外、毎月同誌の「時評」を担当していた。それは吉野の口述によるもので、いつも滝田自らが筆記していた。

いよいよ筆記が始まるとき、突然、滝田は立ち上がり、「今日はひどい暑さですナ、失礼しますよ」というなり、着物を脱ぎ、肌襦袢(はだじゅばん)まで脱ぎ捨てると、サルマタ1枚になった。

木佐木があっ気にとられていると、滝田は脂肪肥りの白い肌を露出し、乳のあたりが盛り上がっている広い胸をテーブルの上にかぶせるようにし、その下に広げられた社用の細長いノートブックに向かうと、鉛筆をとって吉野が口を開くのを待った。

吉野はおもむろに静かな調子で口述を始める。滝田の鉛筆がノートの上を走る。5分間ぐらい筆記がつづく。すると滝田が急に吉野のほうを向いて何か意見を出す。吉野が答える。また口述をつづけ、滝田の鉛筆が動き出す。1時間ばかりで筆記が終わった。

つづけて木佐木は日記にこう綴っている。

〈社へ帰るみちみち、樗陰氏はいろいろ吉野さんについて語ってくれた。吉野さんはクリスチャンで非常に潔癖であること、親切で後輩の世話をよくすること、支那の留学生のめんどうもよく見てやること、世話好きのためいろいろ金の要ることが多く、先生は今大学で最高の待遇を受け三百円もらっているが、いつも足りないこと、中央公論社からの収入でその幾分をカバーしていることなどを話してから、『それに吉野さんの奥さんが派手好きなんでネ』とも言った。

自分は吉野さんの人柄がわかったような気がし、好感が持てた。人柄からにじみ出る香気を吉野さんから感じた。

それにしても今日の樗陰氏の野人ぶりには驚いた。吉野さんは表情も変えなかったが〉

 

強引に『漱石全集』を引き受ける

夏目漱石(大正5年12月死去)の『こゝろ』で出版社としてのスタートを切った岩波書店は大正6年末、『漱石全集』全12巻の予約刊行を始めた。「岩波書店の大を成した最も重大な契機が、『漱石全集』の刊行にあったことは疑いない」(安倍能成著『岩波茂雄伝』)。

安倍によると、『こゝろ』以前の漱石の著作は、大部分、春陽堂から出され、『吾輩は猫である』『行人』などは大倉書店から出されている。その春陽堂や大倉書店をさしおいて、岩波書店が『漱石全集』を出版するのは、相当無理があった。弟子たちの意見も分かれた。

が、岩波の「自分が出版するのが日本のためにも夏目家のためにも一番良い」という信念は揺るがず、鏡子夫人らも賛成したので岩波が引き受けることになった。安倍はそのとき、「岩波の道義感と功名的本能との合致した強引ぶりにまざまざと面接した思ひをした」という。

『漱石全集』と前後して岩波書店から刊行された『哲学叢書』全十二巻、倉田百三(くらた・ひゃくぞう)著『出家とその弟子』、阿部次郎著『合本三太郎の日記』も大正文化史に特筆されるベストセラーとなった。