岩波、中公、講談社…大正の出版社に集まった傑物たちの個性を見よ

「道義の人」に「野人」…

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「雑誌の時代」が幕を開けた大正デモクラシー期、岩波書店や中央公論といった新興の出版社には、様々な個性を持った傑物たちが集まっていた。

第四章 団子坂の奇跡──人材雲のごとし⑶

『中央公論』と吉野作造

講談社が伸び盛りを迎えたころ、国内外で重大な変化が起きている。海外では大正6年(1917)にロシア革命が起こり、共産主義運動がドイツなど世界各国に広がった。翌7年には第一次大戦が終結してパリ講和会議が開かれ、国際連盟の発足へとつながっていく。

国内では大正7年、米騒動が全国に波及した。維新以来の藩閥政府が終わり、盛岡藩(戊辰戦争の賊軍)出身の原敬(はら・たかし)を首班とする内閣が生まれた。第一次大戦の開戦以来つづいた好景気が大正9(1920)年には一転して恐慌となり、各地で取りつけ騒ぎが起きた。

 

論壇では、東京帝大教授・吉野作造が、滝田哲太郎(樗陰<ちょいん>)の『中央公論』(大正5年1月号)に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」を発表して、大きな反響を呼んだ。

滝田は、大正2年にヨーロッパ留学から帰国した吉野と親交を結び、彼の「民本主義」を唱える論考を毎号のように載せた。

〈はじめのうち彼(滝田)自身の思想は、それほど急進的なものではなかった。彼は青年時代福沢諭吉を尊敬し、大学へ入ってからは徳富蘇峰、夏目漱石に近づき、のち『朝日新聞』の主筆池辺三山に傾倒して、しばしばその門を叩いた。明治の末年から大正のはじめにかけて、樗陰は『中央公論』の「社論」を毎号自分で書いてきたが、それらは主として国家主義的立場に立ったもので、富国強兵がその究極の理想であった。

しかし、吉野作造と親しくなるにつれて、彼はしだいにデモクラシーの立場に近づき、彼の執筆にかかる「社論」を大正五年をもって打ち切るとともに、吉野ならびに大山郁夫によって代表される民本主義者たちに執筆を乞うことが多くなり、『中央公論』は大正デモクラシーの牙城となったのである〉(『中央公論社の八十年』)

大正8年、滝田の『中央公論』の発行部数は12万部という過去最高の部数を記録した。滝田は30円の本給のほかに『中央公論』1部につき2銭の歩合給を取っていたので、彼の月収は2000円を超えた。当時、市電の車掌の月給が40円といわれていたから、その50倍である。

「暑いですナ」と言いつつ

同年7月、中央公論社に入社した木佐木勝(きさき・まさる)の『木佐木日記』(中央公論新社刊)によれば、滝田は酒豪で大の美食家だった。飲食に惜しげもなく金を使い、木佐木は滝田のおごりで世の中の美食を飽きるほど堪能した。あまりに度重なるので、断ろうとしたが、そうすると、滝田は明らかに不機嫌になるので、断り切れなかったという。

8月9日、木佐木は滝田から「大学へ吉野さんの筆記をしに行くから、参考のために君も来たまえ」と言われた。夏休み中のひっそりした東京帝大の構内を通って、吉野の研究室を訪ねた。部屋の片隅の大きなテーブルを前にして吉野はワイシャツ姿で椅子に腰かけていた。

滝田は「暑いですナ」と言いながらさっそく袴を脱いだ。そしてテーブルを隔てて吉野と相対した。いよいよ筆記の本題に入る前に滝田は吉野に何か注文をつけているようだった。吉野はそれに対して静かに答え、二人で長いこと今月の時評の問題について意見を交わしていた。