日本の大学はなぜ変われないのか…「研究力」という言葉への違和感

「大学改革」に対する一意見
宮野 公樹 プロフィール

学問を損得勘定でやってきたツケ

ところで、冒頭で述べた本当に大事なことを避ける理由は、それこそが定量化できないからに他なりません。

大事なこととは数字でカウントできないことを我々は本能的に知っているのですが(GDPの上昇が本当に幸せってことなのか? と問うまっとうな論が社会に目立ってから久しい。が、未だ主流ではない)、今日を生きる我々は知らず知らずのうちに思いのほか科学主義に染まっており、定量不可というものをこれまた本能的に恐れてしまっています。

神なるものあるいは宗教がその力を失ったこの時代、計測できないことを扱うのは、その結果責任を分析手法やそのデータにではなく自分が負う覚悟がいる。そして、その覚悟を持つためには、確固たる自分の信じるものがないと無理に決まっています。

 

これは何も政策側についてのみ言っているのではありません。学問とて同じ。良くも悪くも科学は学問を狭めた。

「分かる」ということは何も計測的、あるいは操作的、管理的に対象を分析したことのみを本来は意味しません。「悟る」という言葉をもつ我々がそのことを直感で理解できないはずがないのです。

そこには主も客も無いところでの気づきや驚き、あるいは常識への新たな目覚めがあったはずであり、その感動こそが学問を継いできたのではなかったでしょうか。

〔PHOTO〕iStock

最後に、自戒を込めて青臭いことを言いますが、研究者が自身の感動を信じずにそれに従うこともせず、論文にしやすいテーマを選ぶようになっては学術は終わりだと思います。

真理なるものまたは普遍の追求に対して「実利的に役に立つかどうかなどはわからないし、聞いてもなんだかよくわからないが、なにやらそんなのを越えた次元での凄さを感じる」とは、学術界以外の人間が抱く感情であって、研究者自らが学問の意義の説明のためにそれを言うなど、本末転倒な状況はなはだしい。

こういう状況を招いたのは、誰それやどこそこが悪いとかいう悪者決めつけで結論づけては建設的とはいえません。

しいていうなら、学問を損得勘定でやってきたツケが自分たちに回ってきて、今度は自分たちが損得勘定で見られている、という次第に思えます(別に今に始まったことではないですが)。

学術界を変えるのは学術界の手によってでありたい。

大学(人)にその自鍛自恃があるやなしや。

3月1日に新刊『学問からの手紙:時代に流されない思考』(小学館)を出しました。
改革が目的化している大学改革を問う一冊。この本にて綴った学問というものの再確認で、もう一度学問を、小説や、詩や、芸術、そして「人生」の領域へと押し戻したい。研究者だけでなく、企業人、高校生、子を持つ父母にも大事なものを思い出す「そもそも論」を著者の大学における挑戦活動とあわせて丁寧に述べたつもりです。もしよければ。
発刊に当たっての想い→http://www.cpier.kyoto-u.ac.jp/2019/02/shinkan/