日本の大学はなぜ変われないのか…「研究力」という言葉への違和感

「大学改革」に対する一意見
宮野 公樹 プロフィール

学術研究は「する」ではなく「してしまう」もの

大学や学術政策が可視(科学)的に寄りすぎていて、その中に人文学的思考があまり見当たらないことは、政策文書でよく見かける「研究力」という言葉に顕著です。

例えば、非常に短絡的に考えるなら「研究力」とは論文を多く生産する能力ということになるでしょう。しかし、論文は量を稼げばいいってものでは断じてない。

(そういうものがあるのかどうかわかりませんが)いわゆるゴミ論文を増やしたところで人類の知に貢献したと言えるわけがない。

しかし残念ながら、研究力とは論文生産能力であるという考えが大勢を支配しているからこそ、ハゲタカジャーナルという金さえ出せばほぼ無審査で掲載するジャーナルもでてくるわけですが。

では、研究力とは論文の量ではなく質の高さでしょうか。

だとすると論文の「質」とはいったい何を意味するのか。

 

言うまでもなく掲載誌が有名だからといって優れた研究内容とは限らないし、被引用数が多いところで、それは単に多くの研究に関わっているというだけで、研究の質が高いことと同義ではないでしょう。

極論ですが、あまりにメジャーになった理論(例えば、相対性理論など)は現在引用などされないですし、そもそもある一つの論文がどのように人類の知に貢献するかは歴史こそが判断しうるものといえます。

今更言うまでもないことですが、現時点における瞬間的評価などで研究の意味(価値)が本来的に測れないというのは、研究者なら誰でも肌感覚で分かっていることです。

このように少し考えただけでも、「研究力」とはいったい何を意味しているかわからない。

何かわからないものを強化することなどできません。もしかしたら、いわゆる基礎研究がいっこうに強化されないのも、結局はこの「研究力」の内容が掴みきれていないことが原因かもしれません。

いろいろ考えるに、ことの問題はそもそも「研究力」という言葉を安易に用いていることではないかと至ったのです。

つまり、人文学的思考が足りないことが原因の一つとなり、言葉を軽視する傾向にある。言葉とは我々の思考そのものなので、言葉の軽視は、思考の軽視。いうなら熟慮の欠如にも繋がっているのではないかと。

「研究」に「力(ちから)」という言葉をあてた研究力という単語は、「影響力」や「強制力」とは異なり、「母親力」や「地元力」と同じ類いに思えます。

研究を遂行する営みを「力」と表現すると、それは個人が何か身につけるもの、自分の外にあってそれを習得する能力のような気がします。

しかし、学術の研究というものは「する」ものではなく「してしまう」が本質でしょう。大学における研究は誰かに頼まれてやるものではない。

「研究力」という単語の使用は、研究というものは自分の感動を原点として開始するもの、ということを忘れさせる極めて厄介な存在で、注意深く使わないといけないと思うのです。