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日本の大学はなぜ変われないのか…「研究力」という言葉への違和感

「大学改革」に対する一意見

大学を取り巻く「残念な状況」

前回、「昨今の大学改革がどうでもいいと思えるのはなぜ?」という記事を書きました。大学(人)にとって耳の痛い内容であったかもしれませんが、大学ネタでは多く読まれたほうとのことで、やっぱり研究者を信じてよかったと思いました。

学術界は、研究者一人一人が多少の勇気をもって、自身の内なる感動に根ざす生き方をしようとする以外に変わりようがないのですから。

だからこそ、それを前提としない制度やマネジメントがうまくいくはずがない。換言するなら、制度やマネジメントの限界というものを自覚しない制度やマネジメントに力が宿るわけがないのです。

こういう考えなので、昨今のあいも変わらない大学を取り巻く外側の状況は、やはり残念に思えます。

柴山イニシアティブに代表される霞ヶ関の方向性には、これまでの路線を決して疑うことなく、まるで政策が上手く効果を発揮しないのは、その実施における管理徹底が不十分であるからだと言わんばかりのマッチョな言葉で埋め尽くされています。

改革! 評価! 指標! 厳格! 統計データ! ランキング!  

過度な定量データ依存への批判は、最近は多くの識者や政策者自身も自覚するところであり、ランキングや指標を語る際には、「あくまで数字の話ではあるが」や「他にも重要な要素はあるけれども」といった類いの言葉であらかじめ言い訳文を足していることがままあります。

ずるいと思う。

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本当に大事なことは他にあるけども仕方なくこれを使っているというのは、その本当に大事なことを横に置いて物事を進めていることを認めるそれそのものです。

仮に、ランキングや指標を用いるなら、その改良に不断努力をしつつ堂々とそれを信じて突っ走ればいいのですが、はっきりそうと舵を切れない理由の中に、責任回避の空気をまとっているところがどうしても気になります。

それは、この責任や覚悟のなさが同時に無反省にもつながるからです。一般的には自分に責任がないことは反省のしようがないですから。

 

得てして大学や学術関係の政策が、「なぜこのような状況になっているのか」という歴史的な経緯やいきさつを踏まえず、スナップショット的な今日的不都合を取り除く対処に終始しているのは、この理由によるのです。

反省ができていないというか、反省するシステムが組み込まれていない。

フォローアップという名で各政策の振り返りを実施していることはもちろん承知です。しかし、最初に決めたものさしで評価するだけではなく、むしろ今必要なのは「ものさし」そのものの問い直し、いうなら人文学的(哲学的)反省ではないでしょうか。