「所有」とは何かというと、持っているということだ。
所有はややこしい構造をしていて、本当の意味で何かを「所有する」なんてことはできないが、お金が誰かから別の誰かに移動することによってその人の心の中に「所有した」という感覚が生まれる。錯覚のようなものだ。
つまり現代において「所有」は「お金」というアイデアと対をなしている。そしてこの「お金」も面白い仕組みになっている。
僕は昨年一万円をひろって交番に届けたのだけど、今年になって「一万円の持ち主が現れなかったのであなたのものになります」という電話がきた。
「一万円の持ち主」という言葉に違和感を覚えつつも、一万円は僕の「所有物」(と言ってよければ)になった。
お金が面白いのは、仮に僕がその1万円でメガネを買ったとして、僕はメガネを手に入れることができた"のに"、1万円は無くならないことだ。
僕から眼鏡屋さんのところに流れるだけだ。まるで魔法だ。お金は動くだけで、人と人とのあいだに価値を作りだすようになっている。逆にいうとお金はそうやって動く時にしか価値がない。
つまりお金を使うということは、自分のみならず他の人のことも支えることを意味していた(僕は29歳になるまでお金がこんなに面白いものだとは知らなかった。これはみんなが知っていることなんだろうか?なぜ学校で教えてくれなかったんだろう)。
でも「僕はこの野菜が食べたいから買う」とは思っても「この野菜を育てた人の生活を支えるために買う」というようなことは、通常は意識されない。それを意識せずとも他の人を支えることを可能にしたのが、お金というアイデアだった。
そして住所も、お金というアイデアと関係している。さっきも言ったように住所は人から税金を徴収したり、誰がどこに住んでいるのかを整理するためのポイントになる。
それは一人の人間を社会に紐づけるタグのようなもので、人はそれぞれ必ず住所を持ち、人は住所によって徴税され、住所を媒体にしながら社会と接続している、ということになっている。
そこから漏れる場合、例えば転出届を出したのに転入届を長期間出さないと法律により罰金が科されたりする。このような仕組みのおかげで、僕たち定住生活者の日々は成り立っている。