独裁、内紛、権力闘争……日産を苦しめてきた「歴史の呪縛」

「ゴーン後」はそこから逃れられるか
井上 久男 プロフィール

「塩路天皇」の追放、そして新たな「石原天皇」

川又&塩路体制の下、新労組の力は強大なものと化した。日産は1966(昭和41)年、経営悪化に苛まれていたプリンス自動車を吸収合併したが、当時を知る日産OBは言う。

「じつはプリンスとの合併を最終判断したのは川又さんではなく、塩路さんでした。当時のプリンスは左派系の総評系労組だったので、その対策もあったからではないか。その頃から会社の重要な決済文書は、塩路さんから印鑑をもらわないと、物事が前に進まなかった。上司からは『労組に行って印鑑もらって来い』とよく言われたものです」

川又克二氏

合併という企業の重要な意思決定まで、労組が判断するという企業体質になってしまったのである。プリンスから引き継いだ工場や事業、たとえば村山工場(東京都武蔵村山市)、航空宇宙事業、フォークリフト事業などは、後にゴーンがすべて売却することになる。

 

川又は73年、社長の座を1歳下で人事畑出身の岩越忠恕に譲り、会長に就く。それまで会長職を置いていなかったので、川又が初代会長になる。岩越時代は川又路線を継承し、労組との蜜月関係が続く。しかし、岩越体制は4年で終わり、77年に社長に就いたのが、唯我独尊的な性格で知られていた石原俊だ。川又は会長に留任する。

この石原が社長就任後、川又と同様に独裁色を強め、急拡大路線を取る。川又と違った点は、塩路一郎率いる労組との労使蜜月を断ち切ったことだ。このことで川又との関係もこじれ、83年に川又を相談役に退けるまで6年近く日産社内には社長派と会長派、さらに「塩路労組」の三派が入り乱れて権力闘争を繰り返した。

石原は83年に塩路の後ろ盾でもあった川又を相談役に退けると、次の矛先を塩路に向けた。ここから塩路と、新たな「石原天皇」との陰惨な闘いが始まる。石原は社内に「塩路対策チーム」を新設、塩路の身辺調査を徹底させ、女性問題を暴露する手段に出た。

84年、写真週刊誌『フォーカス』に「日産労組『塩路天皇』の道楽―英国進出を脅かす『ヨットの女』」というタイトルの記事が掲載された。これは「佐島マリーナ事件」と日産社内では言われている。ここは日産保有のヨットマリーナだ。

この記事は日産社内の対策チームが仕掛けたもので、撮影現場では石原の指示を受けた広報課長が指揮を取ったという。塩路に「労働貴族」のレッテルを貼り、抹殺を図ったのだ。

その後、塩路は急速に力を失い、石原は塩路を労組関連のすべての役職から追い出すことに成功。87年に塩路は定年退職し、晩年は失意の中で過ごし、2013(平成25)年2月に亡くなった。

編集部からのお知らせ!

関連記事