独裁、内紛、権力闘争……日産を苦しめてきた「歴史の呪縛」

「ゴーン後」はそこから逃れられるか
井上 久男 プロフィール

鮎川は、同じ長州出身で「革新官僚」として日の出の勢いだった岸信介(当時、商工省課長)らと密接な関わりをもち、満州に進出した。しかし、関東軍とはそりが合わず、42年、鮎川は満州から帰国、満州重工業の経営から離れた。翌年には貴族院議員となり、東條内閣の顧問に就いた。

そして敗戦。鮎川はA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに勾留される。容疑は晴れたものの、鮎川はその後、日産グループの経営からは離れ、政治活動に傾いた。岸信介内閣の経済最高顧問などを歴任して、53年から59年までは参議院議員を務めた。

鮎川は、自分が産み落とした会社の社名に自分の名を付けることも、日産自動車に子息を入れることもしなかった。だから日産には創業家出身者が在籍せず、サラリーマンが歴代トップを務める会社となった。

一方、日産の半年後に創業したトヨタは歩み方が違った。社名に創業家の名を残し、今も君臨する。豊田家は株主としては支配的ではないものの、世界に約40万人の社員を抱える巨大企業グループを束ねる象徴的な存在だ。良くも悪くも求心力となっており、大企業を統治していくうえで、この求心力は不可欠だ。

日産でたびたび派閥抗争が起こったのは、創業家以外でもトップの社長になれるからであった。健全な競争というよりは、キャリアも実力も似た者同士が足を引っ張り合う構図が社風となってしまったことが、内紛の火種となった。

この構図は、多くの日本企業に共通するものである。

 

「日産のドン」と「塩路天皇」の癒着

戦後、日産では深刻な労働争議が続いた。当時の日産労働組合が、左派色の強い日本労働組合総評議会(総評)系だったことも争議が長引いた原因だ。

1953(昭和28)年、日産経営陣は労組に対抗するため、会社寄りの第二労働組合を作った。その中心となったのが、日本興業銀行から日産に転籍していた専務取締役の川又克二だった。

川又は徹底抗戦し、社員の就業を拒んで賃金支払いもしない「ロックアウト」を断行して組合員を締め上げ、総評系労組を壊滅に追い込んだ。その結果、新しい第二労組(新労組)が主流労組となった。

だが、当時の日産社長である浅原源七は学者肌のインテリで、川又の強引な手法を嫌った。労組対策が一段落すると、浅原は川又を子会社に追い出そうとした。

この人事構想をキャッチした新労組が今度はストライキを打って、「川又追い出し人事」に反対した。新労組は川又と協調して左派系労組を追い出した、いわば「盟友」である。会社のトップ人事に労組が介入するという前代未聞の事件が起き、浅原はその人事案を撤回、57年11月に社長を辞任し、川又に本体の社長の座を譲ることになった。

61年には新労組の委員長に、のちに「塩路天皇」と呼ばれた塩路一郎が就任。川又‐塩路の癒着関係が進み、役員人事も含めたあらゆる経営判断に労組が関与する企業体質になった。

塩路一郎氏

『欧米日・自動車メーカー興亡史』(桂木洋二著)は当時の日産についてこう説明する。

「川又は社長就任後2年ほどのあいだに(創業者の)鮎川系列の主要な人物を重要なポストから外すなどして一掃し、ワンマン体制を築いていく。また、組合には借りができたことにより、(中略)労組の委員長に就任した塩路一郎が、独裁的に組合を動かすとともに重役陣の人事に口を出すことにも目をつぶらざるを得なかった。

銀行出身の川又が日産のなかの権力を握ることによって、自動車のことをよく知る人よりも、川又に取り入る人たちが出世コースに乗った。日産の従業員は、締め付けの厳しい組合と上司に取り入って出世した人の狭間で働くよりほかになかった。こうした体制を批判するような人は重要なポストから外されたので、優秀な人材を生かしきれない体制がつくられた」

これは、今から60年近く前のことであるが、川又を「ゴーン」にそのまま読み替えれば、ここ何年かの日産の状態にぴったり当てはまる。

なお、川又は追浜工場にみずからの銅像を建立した。現役社長の銅像が建てられることは当時でも今でも珍しい。銅像は功績を称えるもので、その人が鬼籍に入った後に造られるケースが一般的だからだ。

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