ピーテル・ブリューゲル《叛逆天使の墜落》(1562)

なぜ、この世に「怪物」は存在しないのか?〜若冲からまど☆マギまで

怪物から浮かび上がる「かたち」の法則

伊藤若冲も間違えた!

日本絵画のなかには、「怪物を描くつもりではなかったのに、図らずも怪物になってしまった」という面白いものがある。

以前、日経サイエンス2017年10月号で橋本麻里氏と対談した折に気づいたのだが、伊藤若冲が『池辺群虫図』(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)に描いたコガネムシにも似た動物が、その問題の「モンスター」である。

伊藤若冲「池辺群虫図」(部分)

この「虫」には、昆虫の「前胸」に相当する部分がない。昆虫のいわゆる「胸」と言われる部分は通常、前胸、中胸、後胸の3つの分節からなっていて、そのうち、翅が生えていない一番前の分節を「前胸」というのだが、その部分がごっそり欠けているように見えるのだ。

そればかりか、膜翅(甲虫の後翅をこう呼ぶ)が2対もあるという、突然変異でも起こしたかのような形態を示している。

前胸ができるはずのところに中胸ができ、中胸ができるはずのところに後胸ができているいっぽう、本来の後胸は、そのまま手つかずに残っている。結果、2対しかないはずの翅が、ここでは3対になってしまっている。

 

ちょっと分かりにくいので、こう言い換えてみよう。

位置的には「前胸」があるべき「場所」はたしかにある。しかし、そこには前胸はなく、代わりに中胸ができてしまっている。すなわち、本来それがあるべき場所に別のものが居座っているのだ。人体でいえば、腕の代わりに足が生えているような状況だ。

現実には、体の基本的なパターンが変わってしまい、「あるべきものが、あるべき場所にない」という突然変異は、いくつもの動物で知られている。「ホメオティック突然変異」と呼ばれるものである。「ホメオティック突然変異」は、実験動物のショウジョウバエでよく研究されている現象だが、それにも様々なものがある。

一番有名なのは、「バイソラックス変異体」と呼ばれるタイプで、この突然変異では翅が2対できてしまう。

昆虫の翅はもともと2対で前翅と後翅が区別されるのだが、ハエやカを含む双翅類では後翅が退化してしまっているので前翅の1対だけしかない。ところが、バイソラックス変異体では、前翅が重複して2対の翅ができてしまう。これは若冲の虫と少しだが似ている。

なぜこういうことが起きるかというと、昆虫の体の作りには一定の規則があるからだ。昆虫は、基本的には分節が前から後ろへと繰り返し配列したような体を持っている。その分節のそれぞれは、基本的には同じだが、場所によって少しずつ形を変えている。

ということは、形が作られる発生過程において、それぞれの分節は自分の場所、つまり「番地」を知らなければならないことになる。

じっさい、発生過程においてその番地を教える一連の遺伝子群(ホックス遺伝子群)があり、そういった遺伝子の機能は昆虫だけでなく、他の多くの動物でも似た働きをしていることが知られている。

ということは、動物の基本型、つまり「ボディプラン」がかたくなに維持されているのは、こういった基本的な遺伝子の働き方が保守的だからということになる。そして、それがたまにおかしくなると、異常な形の怪物が生まれてしまうわけである。

というわけで、若冲の虫の形は「甲虫の基本型」に合致しない。昆虫のボディプランの一部が壊れてしまっていて、厳密には昆虫とは呼べないのだ。そしてその背景に、遺伝子の機能レベルでの不自然さが見え隠れしている。

しかし、それでもどことなく感覚的に甲虫だという印象は保たれている。ならば、生物の形に関する感覚的なイメージと、生物学的な形態のパターンとは、別々のレベルにあるルールだということになるだろう。

おそらく、若冲の絵は確信犯ではなく、無意識のうちにイメージの赴くままに描いた結果として、突然変異に似たものを、たまたま描いてしまったのだろう。

だが、そのことが逆に、自然に生ずる変異と、人間によって想像された怪物の間にある、無視しがたい溝の存在を示すのだ。