あの往年の名レスラーが妻を亡くしてメキシコ移住を決めるまで

いつかまた逢う日まで…!
田崎 健太 プロフィール

新日秘話

いつオリンピック候補に選ばれたのかと聞くと「忘れた」、そして「軽量級だから選手が少なかったんだよ」とだけ答えた。「オリンピックなんか目指したことないよ」とそっけなく付け加えた。

高校卒業後、河合楽器に就職、柔道を続けた。彼によると「一年ほどで、肝臓を悪くして黄疸になって辞めた」という。

「前橋に戻って葬儀屋の運転手をしていた」

 

中央大学に進学していた関川哲夫という友人がテストを受けるというので、新日本プロレスの道場まで送り届けることになった。

「話の流れの中で、いきなり〝裸になれ〟って。そうしたら〝いい躯をしてるな。でもいかんせん小さい〟って。それゃそうだよ。俺は軽量級で五十何キロで(柔道の試合に)出ていたんだから。あまりに頭に来たので、ならやろうかって話になった」

そして関川さん――後のミスターポーゴと共に新日本プロレスに入団することになった。

72年、日本プロレスを追放されたアントニオ猪木さんは、新日本プロレスを設立。自宅を改装して道場、寮としていた。

猪木さんと行動に共にしていたのは、山本小鉄さん、木戸修さん、藤波辰已さん、柴田勝久さん。旗揚げ興行に向けて、レスラーが不足しており、二人は練習生として加わることになった。

「テストなんか、何にもなかったよ」

この突然の入団には語られなかった〝裏〟がある。このとき、浜田さんは当時、日産自動車のチェリーに乗っていた。

「その日に(車を)取られたんだよ」

トレーナーでもある山本小鉄さんの命令だった。

「まだ月賦は残っていたんだよ。でも何にも言えないもの」

この白色のチェリーは新日本の初めての営業用車輌となった。もしかして、浜田さんを入れたのはこの車が必要だったからですか、と訊ねると、そうかもしれないと曖昧に頷いた。

その後、関川さんは新日本を退団。いついなくなったのかも浜田さんの記憶にはないという。

「(車を取られているので)俺は逃げられません」

口の端を上げてかすかに笑った。