大河ドラマ『いだてん』に「ハデな主人公」が存在しない深い理由

これは19世紀の小説と同じだ
堀井 憲一郎 プロフィール

ところが、今年はまったく違う。偉人はおらず地味人ばかりだ。

金栗四三や田畑政治は、あまり日本史の教科書に載っていない。嘉納治五郎もふつうの教科書には載らないだろう(載ってたらごめん)。古今亭志ん生を太字で載せる歴史の教科書もないとおもわれる。そういう人たちを中心に据えて、物語が展開している。

あと出てくる人物も、三島弥彦や橘家円喬など、同じくらいの知名度の人たちだ。

「大河ドラマレベルでいえば、そんなに有名ではない人たち」が出てきて、それぞれの人生が描かれている。まっすぐな一本の人生は描かれていない。

最初は、「金栗四三選手のオリムピック物語」だが、それだけで一年をのりきらないだろう。そもそもストックホルム五輪の結果を知ってる身としていえば、この初参加はとても興味深いエピソードだとはおもうが、一本のドラマになるほどの素材ではない。

 

「時代」を描こうとする

だから、いろんな人がちょっとずつ出てきている。

平行していくつもの人生を描いている。これには、おそらく、わけがあるのだ。

群衆小説である『戦争と平和』が、主人公がはっきりとわからないまま、それでも圧倒的な迫力で進むのは、ナポレオン時代のロシアそのものを描いているからである。ロシアにとってナポレオンは迷惑でしかなかった、ということがひしひしと伝わってくる(ヨーロッパ中で迷惑だったとおもうが)。

小説家が「19世紀の長編小説」に憧れるのは、人間を描きながらも、それを越えた「時代そのもの」を描いているからである。おそらく小説家は、人生を越えた「時代」を書きたいのだ(小説家のタイプによるとおもいますが)。

トルストイ『戦争と平和』はそれを描ききった。19世紀前半のロシアそのもの、貴族社会が揺れ動き、19世紀の戦争と19世紀の国家が書かれ、感情を越えた社会の蠢きそのものが描かれている。

読むのはなかなか大変だが、読み終わると、並の小説では得られない大きなものを受け取ることになる(そういう気分になれる)。

群衆小説的な手法で始まった『いだてん』は、おそらくかなりの野心があるのだと(勝手に私は)おもっている。いろんな人が次々と出てきて、ややこしくて、落ち着きのないドラマであるが、それには狙いがある。

細い川の流れが、いつか何かの形でひとつになっていき、予想もしなかった大きな流れになっていくのではないか、まさに「大河」なドラマが出現するのではないかと(勝手に私は)楽しみにしている。

「オリムピック」がキーワードになっているが、しかし、「オリムピック」だけを描こうとしているのでもないとおもう。それを越えた大きなもの(日本の空気とか、何か)を見せてくれるのではないだろうか。

そうだとしたら、いま見放してはもったいない。

ぼんやりでいいから、見続けたほうがいい。そのうち、じわりとおもしろくなっていきそうにおもう(はずれたらごめん)。

私はひたすら期待するばかりである。