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「ゆとり教育」とは何だったのか? 不毛な論争と偏見を振り返る

「ゆとり教育」論がもたらしたものの弊害

「ゆとり世代」は劣っているか?

私が「現代ビジネス」に最初に寄稿した記事は、「『ゆとり世代』学力低下はウソだった〜大人たちの根拠なき差別に『ノー』を!」でした。

この記事の中で私が述べたのは、ある年代(それがいつなのかは定かではない)以降に生まれた若者は、競争の否定、学習内容の削減などを基軸とした「ゆとり教育」を受けた若者であり、それまでの世代とは決定的に異なった、劣っている世代であるという認識について、国際的な学力調査のデータを援用しつつ、偏見であるということを述べました。

「ゆとり教育世代」(以下、「ゆとり世代」)バッシングが最も激しかったのは、若者が「ゆとり教育」なる教育を受けている時期よりも、そういった教育を受けてきた若者が高校や大学を卒業し、会社に入ってくる頃である、2000年代半ば〜後半でした。

 

同記事での議論を繰り返すことになりますが、『週刊現代』2004年7月10月号は、早くから「今年の新入社員は”ゆとり教育バカ”で〜す」という記事を掲載し、また『AERA』2007年4月16日号は、なんと就職活動の段階から「トンデモ内定社員 「ゆとり」チルドレンの就活」という記事を書くなど、なりふり構わぬバッシングが続いていました。

ちなみに同誌同年9月17日号には、「『ゆとり教育』伝統のツケ お騒がせ朝青龍を育てた高砂部屋」という記事も掲載され、もはや「ゆとり教育」なる概念はバッシングのためにしか使われないものになっているといっても過言ではないでしょう。

このような動きに見られるように、「ゆとり教育」という概念は、教育を飛び越えて、若い世代の「異常さ」を解説するために格好のキーワードとなってしまいました。

例えば、マーケティングライターの牛窪恵は、若い世代の消費のありかたについて「おひとりさま」ならぬ「おゆとりさま」なる概念を創出した『おゆとりさま消費』(アスキー新書、2010年)を出したり、1987年生まれのガールズ居酒屋の経営者である大堀ユリエは、自身がともすればマスコミや論客から「ゆとり世代」呼ばわりされる世代であるにもかかわらず、より世代をかなり批判的に取り扱った『昭和脳上司がゆとり世代部下を働かせる方法77』(光文社、2012年)なる書籍を出しています。

ちなみに大堀の「ゆとり世代」に関する認識というものは、《一から十まで全部用意された環境で育ったコばかり》(p.40)《面倒くさがり屋ばかり》(p.43)《完全なる自己満足で、とにかく自分に甘いのが特徴》(p.47)などというものであり、自分が昭和生まれというだけで〈平成生まれ〉の〈ゆとり世代〉を完全に見下しています。

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寺脇研と和田秀樹

さて、その「ゆとり教育」の旗振り役として、1990年代後半に活躍したのは、当時の文部省の官僚だった寺脇研でした。

寺脇は、当時問題視されていた「いじめ」問題に対して、「偏差値教育」と寺脇が呼んでいた、子供を画一的な指標で見るような教育が「いじめ」の原因であるとしていました。

1997年(初版発行日)に刊行された『動き始めた教育改革』(主婦の友社)においては、まえがきを除いた最初の章が「偏差値教育は『いじめ』だ」です。寺脇が「いじめ」に対して示していた認識は、例えば次のようなものです。

差別をする、差をつけるというのは、一つの物差しですべてを測ることから生まれます。子どもの能力を、英語の単語をどれだけ多く覚えたかということだけで測るところから、差別は生まれてきます。英語の単語をどれだけ覚えたかという物差しもあっていいのですが、その一方で、体が弱ってしまったおばあちゃんの世話をするのが得意か不得意かという物差しがあってもいい。いろいろな物差しで、子どもの能力、子どもの可能性を測り、子どもが自分の心を照らすことができるほうがいい。子どもたちみんなの心に、居場所を作っていくことです。
なぜこの頃、こんなにいじめが多いのか。しかも子どもを自殺にまで追い込むような度を超した陰湿ないじめが。
そんなものは、昔はほとんどなかった。ほかにも不登校、校内暴力、経済的な理由ではない高校の中途退学など、昔はなかったものが、なぜふえているのか。それは、昔はなかったストレスが子どもをさいなんでいるからだと私は考えます。昔はなくて、今は子どもの心を支配しているものは何かと考えたとき、だれでも偏差値の存在に気づくはずです。
偏差値とは、その名のとおり、平均値からどれくらい離れているかを示す数値です。
必ず上と下を作らないと気がすまないシステムです。
(『動き始めた教育改革』p.12)

「いじめ」と呼ばれるものについては、世界的な比較研究や社会学的なアプローチなどから(例えば、森田洋司『いじめとは何か』(中公新書、2010年)、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)など)「現代の」「我が国の」「子供たち」において特殊なものとは言えないことが指摘されております。

また、《差別をする、差をつけるというのは、一つの物差しですべてを測ることから生まれます》と言いますが、そもそも社会構造に起因する「差別」と、それこそ寺脇の言うような、競争の成否によって社会的な序列を決定してしまうことという、全く構造が違うものが同列に並べられているのです。