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生理用品の一大革命を起こした27歳主婦をご存知ですか?

日本の女性たちの月経観と生活を変えた

前回(「女性の社会進出を促した一番の功労者は『生理用ナプキン』だった」)は、生理用ナプキンが登場する以前、日本の女性たちがどのように経血を処置してきたかを振り返った。今回は、女性たちの社会進出を支えた生理用ナプキンの元祖「アンネナプキン」のデビューと引退についてまとめた。

 

女のシモのものでメシを食う

アンネナプキンの産みの親となる坂井泰子は、1934(昭和9)年、現在の東京都文京区に生まれた。見合い結婚をし専業主婦となったが、次第に飽き足らなくなり、仕事をしたいと思うようになった。

そこで1960年に「株式会社発明サービスセンター」を設立し、発明家と企業を仲介する仕事をはじめた。

発明サービスセンターに寄せられた考案のなかに、生理用品として使われていた脱脂綿が水洗トイレに詰まらないようにするため、便器の排水溝に網を張るというものがあった。

当時、都会の企業や商業施設では、トイレの水洗化が急速に進んでいたが、女性たちがこれまで通り使用済みの脱脂綿を便器の中に捨ててしまうと、トイレはすぐに詰まってしまった。

坂井はこの考案からヒントを得て、トイレに流せる紙製の生理用品を開発し、販売しようと考えた。

その頃、彼女自身はアメリカ製の生理用品を使用していたが、日本人の体に合った便利で快適な生理用品があれば、女性たちはもっと活動的になれるのにという思いを以前から抱いていたのだ。

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坂井は、生理用品会社を設立するための出資者を探したが、いずれも「女のシモのものでメシを食う」ことに抵抗を感じ、二の足を踏んだ。

そうしたなか、以前、電機製品の発明品を仲介するために訪れたことがあるミツミ電機社長の森部一だけは、「あなた方が社会に奉仕できる、貢献できるという観点からこの事業を始めるのなら応援しましょう」と資本金1億円とミツミ電機の敏腕宣伝マン渡紀彦を託してくれた。

森部は27歳の坂井を新会社の社長に任命した。会長に就任した森部も33歳の若さだった。

新会社のPR課長に抜擢された渡紀彦は、扱うものが生理用品だと知り、困惑した。

しかし、毎月1千万円の宣伝費が投じられることや、まだ会社名も商品名も決まっていないことにやり甲斐を感じ、アンネナプキンの劇的デビューへ向けて邁進することになる。

女性の生理についての知識が皆無だった渡は、女性用トイレに忍び込んで「汚物入れ」の中の使用済み脱脂綿を漁った。そしてその見た目にショックを受け、絶対に水洗トイレに流せる商品を作らなければならないと心に誓った。女性にとっては見慣れた光景でも、そのときの渡にとっては、目を背けたい光景だったのだろう。

実際に、完成したアンネナプキンは紙製だったので、水洗トイレに流すことができた。しかしその後、水に流せない素材のナプキンが主流となったため、今も女性たちは使用済みのナプキンを「汚物入れ(サニタリーボックス)」に捨てている。

前例がなかったため試行錯誤を繰り返した末、今日の生理用ナプキンの原形といえる「アンネナプキン」が完成した。