新人時代の「無責任な電話」で顧客を苦しめた証券マンの後悔
東京マネー戦記【6】1999年夏仕事にも徐々に慣れてくる入社2年目、3年目。顧客に頼られ、ついつい得意になってしまった経験は、ビジネスパーソンなら誰しもあることだろう。証券会社の分析担当部署に配属されたかつての「ぼく」も、その例外ではなかった。大反響の実録小説「東京マネー戦記」第6話。
(監修/町田哲也)
第1回:「リーマンショックの裏で、危険な綱渡りに挑んだ証券ディーラーの運命」
第2回:「優秀な女性社員の『深夜残業と離婚』は、ぼくの責任なのかもしれない」
第3回:「『死ねというのか?』ある証券マンが取引先社長から浴びせられた罵声」
とっさに取った「上司宛の電話」
マーケットの恐ろしさを実感したのは、1999年のことだった。
金利という、当時はあまり注目されることのなかった指標の動きがきっかけだった。国債、つまり国が借金をする際の金利が急上昇に転じたのだ。
1990年代に低下の一途をたどっていた金利は、景気悪化の象徴とされていた。景気が悪いなかでは、投資家は安全性を重視する。もっとも信用力の高い国債が好まれるので、当面金利を上げる必要はないのだと。
しかし国債の安全性に一度疑いの目が向けられると、投資家は逃げるのも早かった。売りを主導したのは、国債をも投機の対象にする海外投資家だ。日本という国そのものの信認が問われていた。
信用力が下がれば、誰も低利回りで国債を買わなくなる。銀行預金から住宅ローンの借り入れまで、個人の生活における金利との接点は広い。あらゆる場所で「金利上昇」が話題になった。
投資家セミナーでは、金利の見通しをテーマにすれば会場が満員になり、顧客は金利上昇に合わせた投資戦略を求めた。入社2年目のぼくも、この地殻変動のなかで何か大きな仕事をしなければという思いに駆られていた。
ぼくは証券分析部という部署で、顧客の運用資産を分析していた。まだ担当顧客もほとんどいない、半人前の存在だ。ある投資家からの電話を取ったのは、まったくの偶然だった。
電話に誰よりも先に出るのは、若手の大事な役割だ。担当者につなぐ前に差し支えない範囲で先方の要望を聞き、自分の名前を記憶してもらう。
「宮下さんはいらっしゃいますか?」
チームヘッド宛てに掛けてきたその投資家は、宮下が出張に出ていることがわかると、ぼくより3年先輩で育成担当でもある橋本の名前をあげた。
橋本はタバコを吸いに行っているのか、見回しても見つからない。不在を伝えると、落胆しているのが声の調子からよくわかった。
「どういったご用件ですか?」
自分の名前を伝えたうえで声を掛けると、電話の相手方は気が楽になったように話しはじめた。
金利がどの程度で落ち着くかメドが立たないため、今後の資金運用をどうすればよいか悩んでいる。何かいいアイデアはないだろうか。電話口の向こうにいる投資家は、予想のつかない相場に対する不満をぶちまけるようにして、一気に話した。
「どう思いますか?」
一通り自分の意見を述べた後で、さっそくぼくの考えを求めてきた。
先方は運用方針の見直しも含めて、今後社内で議論する予定だという。ぼくは自分が意見できるような立場でないことはわかっていたが、文字通りワラをもつかむような声の調子から、何かいわなければいけないような気がしていた。
「私の見方はもっと悲観的ですね」
気がつけばそんなことを口走っていた。
景気を上向かせるためには公共投資が不可欠とされ、小渕政権はなりふり構わず補正予算を打ち出していた。財源確保のために国債発行が不可欠だが、金利が魅力的でなければ投資家は振り向かない。抜本的な解決策がない以上、金利上昇は長期化する可能性がある。
そんなコメントをしたところ、相手の食いつき方は予想以上だった。
「当面、金利は下がらないということですか?」
「それは間違いないんじゃないでしょうか。むしろ今より、もっと上昇するかもしれないと思っています」
「もっとですか? 予想はどのくらいですか?」
「いつまでの期間で考えるかにもよりますね……」
具体的な数字を聞きたがる会話の流れに、警戒しなければいけないという意識が働き、ぼくは回答を抽象的ないい回しに切り替えた。
当時、長期金利は1%台後半を推移していた。担当していない顧客に勝手に自分の意見をいうべきでないことは、ぼくもわかっているつもりだった。
「今後半年間ではいかがですか?」
「そうですね……」
気持ち良かったのは、自分が頼られているという感覚だった。少しでも投資家に近づきたい。そんな思いがぼくを大胆にさせていた。