誰よりも強く、厳しかった稀代の柔道家がこの世を去って4年。遺された息子たちは、時に戸惑いながらも「柔の道」を歩み続けてきた。胸に刻まれていたのは、病床で父が伝えた「最期の言葉」だった。今週発売の『週刊現代』では、父と2人の息子の物語を特集している。
父に捧げる優勝旗
昨年の7月24日、高校柔道三大大会のひとつ「金鷲旗高校柔道大会」の決勝戦が行われた。
駒を進めたのは国士舘(東京)と天理(奈良)。名門同士の団体戦は一進一退の攻防になった。天理はついにこの大会で初めて、国士舘の大将を引きずり出す。
身長190㎝、157㎏の巨体を揺らし、おもむろに中央に進み出た国士舘の2年生大将の名は、斉藤立(16歳)。
かつて、1984年のロサンゼルス五輪、'88年のソウル五輪と95㎏超級で2大会連続の金メダルを獲得した故・斉藤仁さんの次男だ。
この大会、立は特別な思いで臨んでいた。金鷲旗は、学生時代から抜きん出た実力で知られていた父が手にできなかった、いわば「悲願の大旗」。
〈絶対に勝って、天国のお父さんに捧げたい〉
「始め」の声がかかると、立は深々と一礼し、両手を高々と掲げる父と瓜二つの構えで、相手に飛びかかっていった―。
「実は、主人が子供たちに『柔道をやれ』と言ったことは一度もなかったんです」
大阪市内の自宅でこう微笑むのは、仁さんの妻で、立の母親である三恵子さん(54歳)だ。
'15年の1月、仁さんが肝内胆管がんにより54歳の若さでこの世を去ってから、今年で4年。三恵子さんは長男の一郎(20歳)と次男の立を女手一つで育てて来た。
現役を引退後、日本代表のコーチと国士舘大学の柔道部監督とを兼務し、多忙な日々を送っていた仁さんと、キャビンアテンダントの仕事を休職して夫を支えていた三恵子さん。二人にとって、一郎は待望の子宝だった。
生前に受けた数少ないインタビューのなかで、仁さんは子供への特別な思いを語っている。
〈子供と遊んでいるときが一番ホッとします。仕事で帰りが遅くなる時に電話すると、お父ちゃんは柔道ばかりやなあって言うんです。それがちょっとつらいですね〉
'99年生まれの一郎と、'02年生まれの立。生まれた時の体重はそろって3700g。父親譲りの大柄な赤ちゃんだった。
一郎が小学4年生になった春、仁さんにとって待ちに待った瞬間が訪れる。一郎が自ら「柔道をやりたい」と言い出したのだ。そして、いつも兄の後ろをついてまわっている立も一緒に柔道を始めることになった。
仁さんの喜びはひとしおだった。すぐに業者に電話をして、自宅に柔道用の畳を持ってこさせた。自宅1階にあった和室を、稽古場に改装してしまったのだ。
三恵子さんが続ける。
「『なんで、突然柔道をやろうと思ったん?』と、一郎に尋ねたら、『ビデオ見て、かっこいいと思ってん』と。暇さえあれば現役時代の映像を流していた主人の作戦勝ちでした(笑)」
だが、稽古場で待っていたのは兄弟が慣れ親しんだ優しい父ではなく、柔道界屈指の「練習の鬼」だった。その指導は、驚くほどに苛烈だった。
「それこそ、手も足も出ていました。私が『ちょっと、やりすぎじゃない?』と言っても、『素人は黙ってろ』と取り合わない。『俺はちゃんと計算して怒っている』と言っていましたけど、周りの方は驚いたと思います」
仁さんは足の踏み込みの1㎝単位のズレですら見逃さない。所構わず、少しでも時間があれば「足の動きをやってみろ」と指導が入る。出来なければ怒声が飛んだ。
「一郎が『柔道をやめたい』とこぼしたこともありました。ほぼ毎日練習ですし、何よりお父さんが厳しい。でも、『自分からやると言ったしな』と自らに言い聞かせていました。
立は立で、練習を嫌がり、なかなか学校から帰ってこなかった。家に私しかいないときは、『お父さん、死ね死ね』とか、どこで覚えたのか『リコンして』なんて言うこともありました(笑)」