加藤は千駄木小学校の代用教員をしながら機会を待った。上京3年後の春、友人が「講談社という会社は大卒でなくても採用することがあるらしいぞ」という耳寄りな話をもたらした。
加藤は団子坂の講談社を訪ね、人事担当者に自分の夢を語った。担当者は「君の気持ちはよくわかった。だが、今は社が狭くて君の席を置く場所がない。9月には増築するからその頃に来たまえ」と言った。加藤は藁にもすがる思いで訴えた。
「置くところがないなら、廊下の隅でも構いません。とにかく置いてくれさえすればいいのです」
人事担当者は体よく断るつもりだったのだろうが、加藤の必死の剣幕に押されたのか、
「では問題を出そう。『なぜ小学校教師をやめて雑誌記者たらんとするか』。このことについて3日間で作文を書いていらっしゃい。それがよかったら考え直してみよう」
と言った。加藤は夢中になって作文を書いた。1週間ほどたって講談社から返事が届いた。
「貴君を採用と決定した。4月18日より出社されたい」
加藤は『現代』(大正9年創刊)編集部に配属され、お茶くみや印刷所との連絡のような仕事からはじめた。雑誌の数が増え、社員の数が増えるにつれて、つぎ足しまたつぎ足しでふくれあがった社内は、廊下が迷路のように曲がりくねっていた。
階段は細くて、ふたりと並んで上り下りできない。急造の3階に上がる階段などはひよどり越えの坂落としのような険しさである。どの部屋もむんむんする狭さで、背中合わせの椅子と椅子の間は、からだを半身に構えながらでないと通れなかった。
夕方になると、社員たちは手ぬぐいをぶら下げてぞろぞろ隣の風呂屋へ行く。特約により、講談社の社員ならいつ誰が飛び込んでも無料。風呂から上がって一息入れているところへ、これも近くの飯屋と洋食屋に特約してある夕食の膳が運ばれる。こうして毎晩10時11時ころまで仕事がつづいた。人呼んで「団子坂の不夜城」といった。
入社から一ヵ月半ほどたち、社の幹部が集まる編集会議が開かれた。その席で、加藤が『現代』の編集会議用に書いたガリ版刷りの議案書がたまたま清治の目に止まった。
「この議案書は誰が書いたのかね」
「先日入社した加藤という者が作りました」
「いつもと違ってなかなか念が入っているじゃないか」
清治は「誠意のある人」だという加藤の評判は聞いていた。編集会議のあと、加藤が入社志望時に書いた「なぜ、雑誌記者たらんとするか」の論文を読み、加藤の力量を確認したらしい。
そのころ『少年倶楽部』の編集長ポストに空きができることになった。後任の候補者は何人も挙がったが、どれも帯に短したすきに長しで、なかなか決まらなかった。そこで清治が、
「加藤君がよろしかろう」
というと、4〜5人の幹部が賛成した。結局、清治は一度も顔を見たことのない加藤を『少年倶楽部』の編集長に指名した。もちろん異数の抜擢人事である。
加藤はこの時の感激を「どうしてもやりたくて、大好きな子供たちと泣いて別れ、その目的を遂げるためだけに苦労してきたことが突然実現したわけだが、なんだか夢のような気がして、世の中にこんなことがあっていいのかしらと自らを疑った」と語っている。
加藤が編集長に就任する前の『少年倶楽部』大正10年新年号の発行部数は6万部だった。それが翌年には8万部、翌々年には12万部、大正13年には一気に30万部に達した。