入社わずか1ヵ月半で編集長に抜擢された「元教師」がいた

大衆は神である(39)
魚住 昭 プロフィール

それからほどなく、ある日曜日の晩、清治は当時の少年社員7人とお勝手の女中2人を居間に呼んで「実学の尊さ」について語った。

「学問は大切なものだが、学問ができても人間が立派だとか、世のため大事な人だということにはならない。帝大を卒業しても就職に苦労している人がある。英文科を出ても英語で満足な話もできないし、電話もかけられない。そんなことではほんとうに世の中の役に立つ仕事はできないのだ。日本人は維新のころから学問を買いかぶっている。これからは、その非を正していかなければならぬ。お前たちは高い学校にも行かず、深い学問を修めているわけでもないが、心がけしだいでどんなにでも立派になれる。それは実際の仕事の中から、人間として必要なものを学び取ることができるからだ。それがいわゆる”実学”というもので”実学”の価値を本当にわきまえて一生懸命にやれば、きっと一人前、いやそれ以上の立派な人間になれる」

笛木はそれを聞いて愕然とした。大学は青少年の憧れの的である。笛木も苦学して、まがりなりにも私立の大学でも出たいという望みを抱いて上京してきた。そこにたどり着くまでの腰掛けとして選んだのが講談社だった。半年か1年くらいしたら別の職にありつき、夜間の大学に通いたい、と思っていた。そんな自分の考えが誤っていたことに気づいたのである。

笛木をとらえていた苦学熱はいっぺんに吹き飛んだ。笛木は、清治を全面的に信じて行くなら、将来への道も開けるにちがいない、この人の教えを守っていけば、きっと成功できるだろうと思った。それから彼の約60年におよぶ講談社人生がはじまった。

笛木によると、当時の講談社は、社というより1軒の家を少々ふくらませたようなもので、家族的な雰囲気で、明るい気風がただよい、和気藹々(あいあい)としてみんな楽しく働いていた。

少年社員が社用を帯びて使いに出かけるときには、庭の中から自転車を押し出し、門の外に出てから跨って走り出すのだが、庭を出るとき、社長の居間のほうに向かって大声で「井川洗厓(いがわ・せんがい、画家)さんに行ってまいります」とか「博文館に行って参ります」とか言うと、居間の奥のほうから清治の太い声が「オウ!」と響いてくる。

「○○先生に行って参ります」「オウ!」という調子である。清治は奥の8畳の、籐を敷いた居間に、左衛と2人、大きな角テーブルに向かい合って座っていた。

清治は、朝は少し遅いけれど、ほとんど一年中座って社務を見ており、洋服を着ることは、たまに外出するとき以外になく、寒いときには丹前(たんぜん)を着ていた。夏ともなれば、客に会うとき以外は裸、女性が使うような白い、大きな腰巻きをして、裸で采配を振っていた。

青森の小学校教師から──加藤謙一

翌大正9(1920)年、赤石や吉田と同じく師範同期の宮下丑太郎(のちに『現代』編集長)が講談社に入り、さらにその翌年の大正10(1921)年には、やがて天才編集者の名声を恣(ほしいまま)にする加藤謙一が入社することになる。

加藤の四男・丈夫(たけお)が書いた『「漫画少年」物語 編集者・加藤謙一伝』(都市出版刊)によると、加藤は青森師範学校の二部(夜間)を出て、青森市内の小学校で教師をしていた。

生徒の読解力を伸ばすため雑誌を購入して回覧させたが、子供たちは興味を示さなかった。なぜだろうとよく見ると、雑誌には立派な話が載っていて、きれいな挿絵もついているが、内容が子供たち自身の生活に合わないのである。

それなら子供にぴったりの雑誌を作ってやろう。そう考えて、子供たちの作品や自分が作ったあやしげな童話や物語も加え、『なかよし』というタイトルをつけてガリ版刷りにして出してみたら、子供たちがたいそう喜んだ。

加藤も面白くなって、夏休みなどの当直を全部引き受け、当直室に陣取って毎日ガリ版を刷り、学期明けには特大号を出した。そうこうするうち、こんなに子供たちが喜ぶのなら、東京に出て児童雑誌を作ってみたいと思うようになった。

加藤は大正7年、小学校をやめて上京した。22歳のときである。しかし、出版社はどこも冷たかった。雑誌記者の採用は帝大出の文学士か早稲田の文科を出た者に限られており、青森の師範卒の田舎者はあっさり門前払いを食わされた。