入社わずか1ヵ月半で編集長に抜擢された「元教師」がいた

大衆は神である(39)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

「雑誌の時代」が幕を開けた大正期、団子坂の講談社には夢を抱いた若い人材が続々と集結してゆく。彼らはのちの講談社の躍進を支えることになるのだった。

第四章 団子坂の奇跡──人材雲のごとし(2)

赤石、橋本、高木

大正6(1917)年、のちに「清治の名代」として業界に睨みをきかせることになる赤石喜平が入社した。赤石は、清治の師範時代の同期生で、牛込の小学校に勤めていたのを、清治が再三口説いて講談社に引っ張り込み、広告担当にすえた。

それまで講談社の新聞広告は、東亜通信社の浜田訓良という男が一手に取り次いでいた。浜田が毎日のように団子坂に来て、清治を相手に碁を打つ。その勝ち負けによって掲載紙や掲載料が決まっていた。他に博報堂なども入っていたが、ごくわずかな扱い高でしかなかった。

広告が取れないのを嘆く博報堂の担当者に、赤石は「僕が担当する以上何らの情実もない。勉強次第だ。広告がたくさんほしいのなら勉強した値入れをしてみるがよい」と声をかけた。

すると、博報堂の値入れに東亜通信社よりだいぶ安いものがあった。なかでも当時、広告界で最も重視されていた時事新報は、東亜通信社が1行48銭だったのが40銭になった。これは大きな値下げだったので赤石はただちに博報堂に切り替えた。赤石の回想。

〈それから(博報堂が値入れする)報知、朝日、(東京)日日などもだんだん低値入れになってきた。これらはみな浜田君が扱っていたので、一々これらを取りあげてしまうのもどうかと思って、浜田君に値下げの相談を持ちかけた。「今までの君の方の広告料は少し高すぎる。もう少し安く勉強してくれぬと頼めないことになるからよく考えてください」といった。

ところが彼は頑固者である上に、なにしろ講談社に来ちゃ、社長相手に碁を打っていい気持ちで取引をしていたのだから、それに、その時分僕は新米だからね。こっちを軽く見て、社長の信任を笠にきていたのでしょう。僕に対する答えは「もう、できるだけ勉強してやっているんですから、これ以上値下げといわれたって、そんなことは絶対にだめです」とはねつけられた。

「そうかね、そうだとほかに君よりもぐっと安いところがきているからほかに行ってしまうが、それでいいですか」「ぼくよりも安いところがあったらどこへでもやりなさい」「それじゃそういうことでよろしいね」というので話は打ち切り。それから博報堂に一層勉強を促してみると、どんどん値を引いて来たので、「それじゃ、これとこれをやろう、これもやる」というのでだんだん博報堂の方は数十倍にも達し、浜田氏はしまいには全部とられてしまった〉

大正7(1918)年、赤石と同じく清治の師範学校時代の同期生・吉田和四郎と、のちに『キング』の編集長となる橋本求(もとむ、早稲田大学政治経済学科卒)が入社し、翌8年には、左衛の妹・操の夫である高木義賢(よしかた)が講談社に入った。

高木は逓信省の元役人だった。上海の郵便局で働いたり、同省の沖縄丸に乗り込んで事務長をつとめたりして経理に明るかったので、それまで左衛が大福帳式(商家の小規模な元帳方式)でやっていた講談社の経理を改め、会計部を独立させた。

この人の教えを守っていけば──笛木悌治

同じ大正8年、のちの『幼年倶楽部』編集長で、講談社五十年史の編纂実務を担当する笛木悌治(ふえき・ていじ)が少年社員として入社する。

笛木の著書『私の見た野間清治』によれば、当時の講談社の社員は18人、少年は笛木を含め7人で総勢25人。雑誌は『雄弁』『講談倶楽部』『少年倶楽部』『面白倶楽部』の4誌、単行本は創業以来発行したもの全部あわせて約70点くらいのものだった。

笛木は入社翌日から、襟に「講談倶楽部」と染め抜いた厚司(あつし、仕事着として用いる厚い木綿織物)を着て仕事をはじめた。笛木は郷里の新潟で農家の激しい労働を経験してきたから、講談社の仕事などは遊んでいるより楽なくらいで、とてもじっとしていられなかった。

仕事を見つけては自分から働く。食事の用意から食後の後片づけ、食器洗いのほか便所や下駄箱の掃除など、人がいやがる仕事を進んでやった。そうした点が清治の気に入ったらしい。

ある日、正面玄関の階段を掃除していると、清治が2階からノッシノッシと下りてきて、

「笛木、たいへんよく働くようだね。仮入社は2週間という約束であったが、もうよく分かったから今日から本入社にする。そのつもりでしっかりやってくれ」

と、言った。