一度「絶望」を知ってゼロになる浪人生、捨てたもんじゃない

現代文講師が語る挫折と蹉跌のススメ
三浦 武 プロフィール

明るくまじめなT君のおかげで

初月給でメシをおごってくれた医師のT君、彼のいるクラスを受け持った一年間は忘れ難い記憶のひとつです。とにかく教室が明るい。みんなよく聞いてくれるし、ありがたいことによく笑ってくれる。担当した講師は口を揃えてそう言います。

さすがに医学部を目指す諸君のクラスですから、全員合格ということにはどうしてもならないのですが、それにしても、驚くほどの数の合格者が出ました。ことにT君の周囲にいた連中はみんな受かっちゃった。

その「みんな」が春先に挨拶に来てくれました。そのとき、あの「明るさ」の秘密がわかったのでした。もとよりT君は、その風貌からひょうきんで、声をあげてよく笑うし、しかし勉強はまじめにやっているし、彼が教室の何らかの磁場を作っていることは明らかでした。

私が何か書籍を紹介すると、翌週の授業にはそれを必ず購入してきて、そっと机上に出してにやにやしている。「マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、これをかまずに言えてはじめて教養人といえる」などと戯言を言うと、ちゃんと用意している。古書店で安く見つけてくるのです。教室全体がそれを面白がっている。

ある日、何かはずみで「小林秀雄全集」のことを話したら、みんな大笑いになりました。が、彼は翌週、ちゃんと手に入れて来たのです。もちろん全集のうちの第三巻だったか、ぼろぼろのを一冊だけですが。そうやって自分も楽しみ、皆を喜ばせていたわけです。

さらに彼は「モノマネ」の達人でもあった。それがわかったのが、その挨拶に来てくれた春先のことだったのです。それこそが「秘密」だった。彼は授業前、講師がやって来る直前まで、教壇に立ってその講師のモノマネを披露していたというのです。それも、その授業の第一声がなんであるかを予想して。

ときに的中すると、それはもう大爆笑でしょう。講師は何が何やらわからない。が、連中の笑いに、皮肉も悪意もないことは経験的にわかっていますから、一緒になって朗らかに始めるしかない。

あいつらがみんな医者になって、人のために活躍してくれるのだと思うだけで、なんだか頬がゆるんでくるようです。

「愚」には称賛の価値がある

一度「絶望」を知って、自らを「ゼロ」に位置付けて、それから「自分」のハートと身体で生きはじめる。こういう人は、世の中をバカにしないし、ささやかな一歩を楽しめるし、なにより謙虚であるかも知れません。

哲学者の三木清は「日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている。これが行動とか実践とかいうものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である」と述べています。

「到達点」と「結果」が全てであるなら、人生のほとんどの意味が失われかねない。なぜなら人生は、ほとんどが「過程」だからです。

もとよりその「過程」もなんらかの「到達点」に向けられたものだが、それでもその「過程」にこそ価値を見出さなければ、「結果」の成否だけで人生の値打ちが決まってしまうような、殺伐としたことになってしまうでしょう。

「過程」にこそ意味がある。けだし「旅」がそうです。人生と旅とは、しばしば相同性をもって語られますが、それはいずれも「過程」に本質があるからではないか。

人生は終わりなき旅(photo by iStock)

「六、六」の「すごろく」は「到達点」と「結果」しか見えていないという意味で、まことにつまらない旅ならぬ旅だ。人生ならぬ人生であります。「一、二」しか出ないサイコロの方が、実は「過程」をゆっくりと経験させてくれ、豊富な旅と密度の高い人生を約束してくれるというわけです。

「愚か者!」などというときの「愚」という字、これは、頭の大きな爬虫類の象形で、つまり動きがのろく、そのぶんだけ、あたりをよく見ているということを意味するのだそうです。よって「愚」には称賛の価値が含まれている。

解答とそのプロセスがあらかじめわかっているような社会では「六、六」がいいとされる。けれどもそれでは、人間は正確な計算機たることを要求されているだけかも知れない。

「現役」諸君! たまには脇道に逸れて、あたりをゆっくりながめてみよ! 文学や芸術というのは、半ばはそのためにある。役に立つことをやらねば、というような強迫を感じたら、半日でもいい、人生を「浪費」したまえ! 精神的「浪人」を自らの裡に育め!

「浪人」諸君! 正解なくプロセスも不明な現実の社会は、「一、二」の辛さを知っている、蹉跌の青春を送った、まさしく諸君の出番だ!

「現役」も「浪人」も受験のわずかな時間のことである。人生の大事ではない。しからばどちらでもかまわない。

ただ、謙虚で「愚」たらんことを祈ります。