一度「絶望」を知ってゼロになる浪人生、捨てたもんじゃない

現代文講師が語る挫折と蹉跌のススメ
三浦 武 プロフィール

「本当の自分」はどこにいるのか

しかしやがて気づくわけです。今生きているのは生身の自分なんかではない。制度化された自分だ。自分はひとつの制度と化して、パターン化された人生をプログラム通りに滑っているだけである、と。

時間よ止まれ! このままでは、制度としての人生に翻弄されて終わってしまう! 自分は誰なんだ? 他ならぬ自分が、自分の決意と肉体をもって生きるのが、それが人生ではないのか?

何とか「自分」を回復せねばならない。いや、「本当の自分」なんて幻想じゃないか……なるほどそうかも知れない。そうかも知れないが、幻想だからといってそれを捨て去ることなどできない。

本当の自分とは何か、そんな、答えのない問いを問いながら生きるのも「自分の人生」でありましょう。

かくして、ノックアウト君のように、現役で一流と称される大学に行ったはいいが、大学生活に空しさを感じてやめてしまう青年がいるのです。

入学して映画か何かのサークルに入り、のめり込み、まもなく教室には出なくなって、2年間でとった単位が6単位、という強者もいました。サークルでは「自分」に会えるが、教室には「自分」はいなかった。

やがて大学を去って、小さなベンチャー企業に勤めましたが、こんどはその会社が倒産……なるほど、人生は甘くはない。

が、まんざら知らない仲じゃなし、ちょっと親身になって、どうするつもりかね? と問うてみたら、しばらく考えて、大学に戻ろうかと思います、との返事でした。そして22歳で復学し、今は何やら面白そうに教室に日参しているようです。

迷わずして何が人生だ(photo by iStock)

安定から「一時撤退」する

ノックアウト君もベンチャー君も、自分が帰属する制度から一旦出てみる必要があったのです。道から外れてみる。一時撤退。秀才はみなそうすべきなのか。むろんそんなことはないでしょう。多くはちがう。

しかし私はつい少数派を見てしまうのです。そこに、現代を生きる青年の、その切実な一断面が、集中的に顕れているように思えるからです。

すなわち、自分の肉体と心で生きているという実感がない。それにふと気づいてしまったときに必要なのは、一直線の「すごろく」から脇道に逸れて、つまり「撤退」してみて、本当に「自分」として生きているかと問うことだ。

そうやって「自分」を回復して、あらためて「自分」として生き直す。そこから「自分」の人生が始まる……生きることの手応えや充実は、そのようにしてしか得られないのではないか。

実際、その手応えや充実を知った諸君は、その後は地に足のついた生活を送ることでしょう。それが社会で活躍することになっているか、それはわかりませんが、少なくとも、社会に翻弄されて、自らを見失いながら、それに気付かない、というようなことにはなるまいと思います。

挫折も蹉跌も、しばしば有意義なものなのです。

とはいえ、彼らのように、自分の定型的な、かつ安定した生から離脱するというのは、少なくともその瞬間においては不幸かも知れず、並々ならぬ決心です。一方、期せずその「離脱」を強いられてしまう人たちがいる。

それが浪人生であります。