ここまで必死に頑張ってきた(photo by iStock)

一度「絶望」を知ってゼロになる浪人生、捨てたもんじゃない

現代文講師が語る挫折と蹉跌のススメ
受験シーズンも終わろうとしています。力及ばず受験に失敗して、「浪人」を選ぶ道は、自己の解体と新たな自己の創造への契機となります。挫折も蹉跌も有意義なものなのです――河合塾現代文講師として絶大な人気を誇る三浦武氏が、そんなことをしみじみ語ります。

秀才と呼ばれるがゆえの苦悩

道は一本道、その一直線の「すごろく」を「六」の目を出し続けて突っ走る……そんな人生が、今、「理想」になっているんじゃないだろうか。あくまで合理的でむだのない、生産性の高い人生。

私は塾の講師ですから、「六、六」で突っ走りつつある秀才にもしばしば出会います。どの教科もまことによくできる。私などは「一」と「二」しか出ないような、いびつなサイコロを持たされて右往左往する青春だったので、そんな彼らに対する羨望とか嫉妬とかに近い感情が、ふと胸に萌すことがないでもない。

世の多くの高校生、ことに受験生も、その点、私と大きくは違わないでしょう。けれども、ではその秀才たちが、文句なく幸福かというと、どうやらそうでもない。

考えてみれば「六、六」のサイコロだって、相当にいびつです。彼らは彼らなりに、秀才と呼ばれるがゆえの苦悩を経験していたりするものです。

たとえば「『自分』が生きていない」というふうなことを思う。そんなふうに鮮明に自覚しているわけではないが、その胸の裡にふと湧いて来るモヤモヤをあえて言葉にすれば、どうやらそんなことになるのではないか。

少数派かも知れませんが、ちょっと無視できない。「自分」が生きていない……これは切実です。

自分は生きているのか……(photo by iStock)

逆風にさらされて、自分の存在が浮かび上がる

ずいぶん前のことになるが、私の「教え子」に、理科系の大学を中退してプロボクサーになったヤツがいた。それが、およそ格闘技には縁がないような、精神的知性そのものみたいな青年だったのです。

それだけに、「1ラウンド1分46秒ノックアウト負けです!」という、彼の弾んだ電話の声は衝撃でありました。まさかそんな人生を送っているとは。そういえばコイツは、自分に向いてない方、向いてない方に行きたがるのだった。たとえば文系諸科目に際立った才能を示していたのにあえて理学部に進むといったような。

逆風にさらされて、はじめて自分の存在が浮かび上がる。おそらくはその手応えを求めて、そういう途に入り込むのでありましょう。

このノックアウト君も「六、六」型秀才でした。秀才諸君は、多くの場合、かなり早い段階で、たとえば小学校時代の半ば頃には、「秀才」として将来を嘱望されはじめる。

嘱望というと大袈裟ですが、つまり周囲の大人たちが漠然と抱く期待であって、たとえば首都圏の有名中高一貫校の受験に成功すれば、将来は東大かな、くらいのまなざしは覚悟せねばならない。

当初はそれも、自らの矜持というか虚栄心というか、そんなものをくすぐってくれるし、そもそも人々のまなざしには称賛と善意があふれているみたいだし、そう悪い気分ではない。

が、思春期に入ると、それが逆に苛立たしくなってくる。そんなに簡単に人の人生を決めてくれるな……。そそがれるまなざしが、どんなに善意にあふれたものであっても、それは彼や彼女を見ているのではない。秀才という「型」を見ている。

言い換えれば、彼や彼女を、全宇宙にたった一人、たった一度存在するかけがえのない個としてまなざすことは決してせず、所詮はありふれたある種の「タイプ」に回収してその人生を云々しているというわけです。

もとより他人のまなざしを待つまでもない。当人だって、はじめはそういう「型」への仲間入りをこそ喜んだのだったかも知れない。