「AIと神」…人工知能は自分自身の夢を見るか

AIは私たちの新しい神になり得るのか
稲垣 良典 プロフィール

AIの限界

「AIは哲学できるか」はよく考え抜かれた興味深い論考ですが、哲学という知的探求の本質を「(哲学する)自分自身にとって切実な哲学的問いを内発的に発する」といった心理的な表現で規定している点に疑問を感じます。

乱暴な言い方のようですが「AIは哲学できるか」という問いは、「AIは知恵を探求できるか」と言い換えた上で、(私には全く想像もつかない精巧で複雑な道具ですが)要するに物体であるAIに知恵の探求の中心課題である「自己認識を行うことが可能であるか」と問うべきでしょう。AIの文字通り恐るべき強さは「膨大なデータの集積(記憶)と解析能力とそのスピード」でありますが、物体である限り、自分自身を認識することは絶対に不可能であります。

 

これははなはだ独断的な主張に響くかも知れませんが、自己認識について注意深く吟味すれば誰にでも容易に確認できるはずです。

われわれは日常的に「汝自身を知れ」という戒(いまし)めを聴き、自己を愛する、あるいは憎むという経験について語り、自己に打ち勝つ覚悟を固めます。しかし、「知る私」と「愛される私」、「愛する自己」と「愛される自己」、「打ち勝つ者」と「打ち勝たれる者」というふうに「一」である「自己」が二重化されていることを奇異に感じたり、自分は二重人格なのかと心配することもありません。

ということは、真の「自己」、すなわち理性を働かせ、自由を行使する精神的存在である自己とは、物体とは違い、一、二、三、と数えられる「ここに・今」在るという「一」ではなく、「自らにおいて在る」「自己に立ち返る存在」、つまり「二にして一」であるような「存在」の「一」なのです。

謎めいた話になったようですが、精神的存在としての自己は関係、あるいは交わりという観点から理解するのが判りやすいということです。

実を言いますと、自己認識は「形而上」つまり感覚的に知覚される物体よりも高次の在り方をする対象に関わる「形而上学」に属するテーマなので、関心のある方は拙著の始めの数章を参照してください。大事なのは、「自己」を知るのは決して「問題」と取り組む科学的知識のレヴェルではなく、「神秘」に直面して驚嘆する知恵によってだ、ということです。

30年前の古いジョーク

最後に「AIと神」と題する一文を結ぶのに恰好の一口噺(ばなし)を紹介させてください。「世界中のAI専門家が協力してこれこそは全能・全知と言える究極のAIを完成させました。合議の上、全員が最も知りたいと望んだ質問を選びました。出来上がったAIを囲んで静まりかえった会場で質問が発せられます。『神は存在するか』。AIは直ちに答えます。『然り。私がそれだ。』」

これは30年ほど前にヨーロッパのある学者から聞いたコンピュータに関するジョークの言い直しですが、人々がコンピュータ(AI)について抱く過大な(不安と恐れの入り交じる)期待の諷刺でしょう。

AIが「私は神だ」と宣言する「神」とは人間が作り上げたものを神と崇め、礼拝する「偶像」という意味に解すべきだと思います。唯物論者、つまり「ここに・今」在る物体的な存在よりも譲位の、高次の在り方をする精神的存在が実在することを見てとる「視力」を身につけていない論者が口にする「神」は人間が造る偶像でしかありえないことをこのジョークは示唆しているように思われます。