「AIと神」…人工知能は自分自身の夢を見るか

AIは私たちの新しい神になり得るのか
稲垣 良典 プロフィール

本当に「神は死んだ」、のか?

このように現在われわれのあいだでほとんど自明の理として通念化している「理性」「自由」の概念は、実は近・現代思想を根本的に根拠づける信仰と理性の分離、それにともない人間の「知」を科学に代表される知識(scientia)のみに限って知恵(sapientia)を忘却したことに由来するのではないか、と私は考えています。

それは人間が神への小児的な依存から脱却して自立的な生き様、考え方を身につけた徴であり、人類の進歩の証であるとする進歩思想や啓蒙主義がわが国では今でも根強くい影響力を保っているように思われます。

この進歩思想・啓蒙主義を適切に批判克服して、そこに含まれている人間中心主義世界観をどのように真実の人間尊重の方向に転換させるかはこの国の文化・教育の根本的課題であろうと考えていますが、哲学の研究者として私が最も関心を抱いているのは、(科学によって代表される)知識から明確に区別される知恵の復権です。

この書物の副題「哲学としてのキリスト教」は決してキリスト教は哲学だ、と主張するのではなく、哲学(フィロソフィア)が本当に「知恵の愛(フィロソフィア)」であろうとするなら知恵としてのキリスト教から学ぶ必要があるのではないか、という、控えめながら或る意味では極めて過激な主張です。

「神とは何か」という問いは知恵に関わる問いであり、それを知識(科学)の問いと解した場合には問いは空回りするだけで、何ら知的な実りはありません。暴言のように聞こえるかも知れませんが、唯物論者のマルクスは言うまでもないとして、カント哲学においてさえ、神をめぐる議論は空回りしていると言ってよいでしょう。

 

「AIは哲学できるか」

「AIと神」という題を選んだのは、AIが文字通り人間の社会を一変させ、人間の運命を左右する勢いを見せているのに、「神とは何か」という類(たぐ)いの議論に対抗するためでもありますが、何より知識(科学)と知恵を明確に区別しなければこの種の問題に適切に答えることができない、と考えるからです。

参考資料としては「AIは哲学できるか」と題する興味深い、わが国の一哲学者による論考(森岡正博『朝日新聞』2018年1月22日)がありますので、その中の問題的に従って論を進めることにします。

この哲学者によると、もしAIに過去の哲学者のすべてのテクストを読み込ませ、解析させることができたら、人間が考えうる哲学的思考パターンのほぼ完全なリストが出来上がり、人間によるオリジナルな哲学的思考パターンが生み出される余地は消滅する。つまり「哲学する」前段階としての哲学史研究はAIによって終止符を打たれ、それに続くべきオリジナルな「哲学する」作業もおそらく不可能になるでしょう。

しかし話はここで終わるのではなく、「この哲学的AIは本当に哲学の作業を行っているのだろうか」という疑問が提出されます。

外から入力されたデータを解析するだけでは哲学とは言えない。そもそも哲学は自分自身にとって切実なる問いを内発的に発するところから始まるのであり、哲学的AIがこのような切実な哲学の問いを内発的に発することは当分起きまい、というのです。

結論としてこの哲学者は、哲学的AIが内発的哲学能力を取得するところまで進化をとげ、人間が生み出した哲学的思考パターンとは全く異質の哲学的問いを発するようになったら、人間とAIとの対話が始まり、それこそが哲学に新次元を開くことになると思われる、という見通しを提出しています。