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「AIと神」…人工知能は自分自身の夢を見るか

AIは私たちの新しい神になり得るのか
現代人のAI信仰は、新たな偶像崇拝に過ぎないのではないか?——今年2月に『神とは何か』(講談社現代新書)を上梓した、齢90の碩学による、哲学からのささやかな反撃。

究極の問い?

私が自分にはすこし重すぎると感じた「神とは何か」というテーマと向き合ったとき何よりも気にしたのは、このテーマが哲学の分野で、そしておそらくはすべての人間にとって知的関心を抱くにふさわしい重要性、さらに緊急性さえも持っていることをどれだけ理解してもらえるだろうか、ということでした。

私自身は、人間は誰しも自分自身、つまり人間について無関心ではありえないはずだから、必ずいつか、何らかの形で「人間とは何か?」と問うときがあるだろうと考えました。

そして「人間とは何か」という問いが経験的・実証的な科学的思考のレヴェルにとどまらず、哲学的な「自己認識」をも視野に入れるところまで徹底的に深められた場合には、その問いは論理的・必然的に「神とは何か」という問いを呼び起こし、それと結びつくことを確認しました。

自己認識の徹底的な探求は必ず神探求の段階に行きつく、あるいは神認識の試みなしには自己認識はありえない――このような私自身の哲学的探求から自然に浮かび上がって来た見通しに基づいて、「神とは何か」というテーマはすべての人間が知的関心を向けるにふさわしい重要性を持っている、と結論したのです。

 

近・現代思想の本質は

しかしこんにち「人間とは何か」という問いが「神とは何か」という問いと親密に結びつく、と考える人は稀であり、このような考え方は非常識として片付けられないまでも、ごく例外的として無視されるようです。

一般に受け容れられている人間観によると、人間がこの自然環境世界で共生している他のすべての生物から明確か決定的に区別(この区別は「本質的」ではないと主張する学者もいるようですが)されるのは、人間のみが有する知性的な思考・認識能力である理性と、その理性に基づいて人間のみが享受・行使する自由によってです。

ところが人間がそれによって人間として生き、活動する理性および自由という概念は、「神」と呼ばれる存在と必然的かつ親密に結びつくどころか、むしろ神への依存関係から解放され、逆に「神」の存在を否定・排除する傾向を強めているのが近・現代思想の特徴と言えそうです。

理性について言えば、理性的認識が厳密で完全な意味で実現されるのは科学的認識においてであり、そして科学的認識に基づく「世界」理解によれば、すべての実在するものを含む全体的な自然・宇宙は自己完結的であって、「神」という仮説を必要としない、というのが現代のわれわれのあいだで「理性的-科学的」思考として広く受け容れられている立場ではないでしょうか。

これは神の存在を積極的・明示的に否定・排除する無神論ではありませんが、「理性的・科学的」に思考する限り、「神」と呼ばれる仮定についての知的関心は無用とする立場であり、現代社会における神への知的関心の不在という知的環境を生み出している大きな原因のように思われます。

現代人に神はいらない

自由については状況はかなり違うようです。人間の、と言うより個人の自由を絶対・最高にすることが真の自由であって、それが人間の尊厳に適うことであり、人権尊重であると考えられるようになった帰結として、人間が自由であることと創造主である神の存在を認めることは両立しえないという神排除の論理が近・現代思想において影響力を強めたように思われます。

つまり、人間を人間たらしめる理性を完全に行使するという観点からは、神からの特別の照明や教示は必要でない、つまり人間が人間であり、自己を実現するためには神など関心の外に置いてもよい、という神不在の「人間・世界」理解が成立します。

これに対して人間の自由は「人間であること」すなわち「人間本性」という前提に拘束されず、人間の自由は「人間であること」をも自ら造り出してゆく絶対的なものだと解した場合には、先に触れたような神排除の論理が成立します。「無関心」ということにとどまらず、積極的に神を否定・排除する無神論の立場になるわけです。

このような無神論を理論的に主張する人はわが国では少ないようですが、倫理・道徳に関して相対主義の立場にとどまる論者は、論理的には倫理・道徳の存在論的根拠である人間の自然本性、したがってまたその創造主としての神を否定・排除するものであることを認めざるをえないと思います。