2019.02.26
# 思想

不可欠な思想としての疎外論──今村仁司の思い出

講談社選書メチエ 創刊25周年記念
國分 功一郎 プロフィール

私ならば存在論的疎外論を、本来性の概念とセットになった疎外論として定義する。本来性の概念は「人間は本来はこうあるべきである」とする「起源と目的をもつ神学=形而上学的物語」から切り離せない。

だが、疎外論は本来性によって定義されるものではないし、疎外論の思想的使命は今も少しも達成されていない。人が疎外されているという事実が確かにある。というか、私たちは毎日それを目にしている。

 

だからそれを変えようとする実践的関心にとって、疎外論は不可欠である。ならば、神学=形而上学的な物語に至らない疎外論が構想されねばならない。つまり、「本来性なき疎外論」こそが構想されねばならない。

だが疎外論は忘れられていった。というか、積極的に忌避されるようになっていった。今村にはそのような傾向を推し進めたものこそがポストモダンの思想だと思えていたのではないだろうか。

「起源と目的をもつ神学=形而上学的物語」こそは、ポストモダニズムが最も強力に批判したものであった。その批判は正しい。だがその批判は、結果として、疎外の現実を変えようとする実践的関心をも失わせてしまった。

だから、批判的疎外論──本来性なき疎外論──がそこから論じられることはなかった。

68年革命の観点から、「パリの5月」、「プラハの春」、そしてベトナム戦争を同時に捉えようとした今村の関心は、疎外論をベースにした近代論へと向かう。その必要性が理解されない同時代に今村は強いいらだちを覚えていたのだろう。私はそのいらだちを共有する。

「お前はバカだが、少し教えてやる」

一度、講義の後、今村に質問に行ったことがあった。

講義で「ホッブズは国家を機械として捉えている。だから表面上は革命権を認めていなくても、実際にはそれを認めているのだ。ホッブズには革命権の思想がある」という驚くべき解釈を聞かされて興奮した私は、その興奮に突き動かされ、「バカに教えることはない」と言われるかもしれないというのに、ノコノコと質問に行ったのである。

「どうしてホッブズはそれをハッキリ言わなかったんですか?」という、それこそバカみたいに初歩的な質問に対し、「それはやはり言えなかったんでしょうね」と今村は終始ニコニコしながら答えてくれた。

分厚いメガネ(今村は目が悪く、視力の低下にずっと悩まされていた)の向こうで微笑んでいたその目を今もハッキリ覚えている。

今村は当時の世の中や思想界には絶望していたのかもしれないが、次の世代を育てないといけないという強い思いを持っていたのだろう。私は自分がその思いに応えたとはとても思えないが、今村から影響を受けたことだけは確かである。

自分の本を持っていったら、「お前はバカだが、少し教えてやる」ぐらいは言ってもらえただろうか。今村が口にした「バカ」の一言は、今も私に緊張感を与えてくれている。

※ 読書人の雑誌『本』2019年3月号の「選書メチエ 創刊25周年記念 特別寄稿」より転載

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