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# 思想

不可欠な思想としての疎外論──今村仁司の思い出

講談社選書メチエ 創刊25周年記念

今村仁司のいらだち

「バカに教えることはない」──1993年当時、大学1年生だった私はこのような一言で始まる講義にとても驚いた。周りにはこの一言を聞いて、憤慨して階段教室を出て行く学生もいた。

分厚いメガネをかけたその大学教授は、そう述べた後、重たそうな鞄から分厚いコピーの束を取り出し、自らの近代論を延々と語りはじめた。それが今村仁司だった。

 

講談社選書メチエと言えば、誰よりもまず今村のことを思い出す。このシリーズの第1弾は氏の『近代性の構造──「企て」から「試み」へ』(1994年2月)だった。私が受けた講義も、この本の内容と大きく重なっている。

当時はまだ「ポストモダン」という言葉が流行していた。今村の思想的課題とはおそらくずっと「近代」にあった。それをどう批判し、捉え直し、組み換えていくのか、今村はずっとそれを考えていたように思う。

彼が最も真剣に取り組んだ労働の問題の背後にも、近代をどうするかという問題意識があった(『労働のオントロギー──フランス現代思想の底流』勁草書房、1981年)。

そんな今村にとって、ポストモダンの思潮はとても満足できるものではなかったのだろう。そのいらだちがもしかしたら講義の冒頭の一言であったのかもしれない。

『近代性の構造』を本当に久しぶりに繙いてみた。この本が1968年革命を世界的な革命として捉えるところから始まっていることはよく記憶していたが、忘れていたのは、今村がプラハの春に言及していたことである。

言うまでもなく、この「早すぎた春」は1968年の出来事である。今村はこう記している。

実際、ゴルバチョフの世代は「プラハの春」によって精神的敗北感を味わっている。この世代は、「良心の痛み」を持って生きざるをえなくなっただけでなく、ソ連の改革を担っていくことになる。

憶測が許されるとすれば、プラハの改革を担った世代とゴルバチョフの世代とは、じつは前者のモスクワ留学という形で近しい関係を結び、ゴルバチョフ自身もそのことを相当自覚していたはずだ。

したがって、ソ連のゴルバチョフの改革問題を考えるとき、一見ソ連が自発的にそうなったように思われるが、「プラハの春」なしには絶対的にありえなかったということだけは知っておく必要がある。

だからこそ、1968年の「プラハの春」は、すくなくとも東欧圏において、思想的な観点から見て決定的な出発点になっている。まさにこの意味で、68年の「プラハの春」は、ソ連・東欧圏の歴史において地殻変動的な事件といってよい。(5頁)

プラハの春がゴルバチョフの世代に大きな「精神的敗北感」を与えていたという事実は、それこそ専門家ならば知っている事実なのかもしれない。しかし私はそのような想像力を働かせることはできなかった。

本来性なき疎外論

昨年2018年は68年革命50周年であり、日本でもいくつかそれを記念する展覧会などがあったけれども、プラハの春の話はほとんど耳にしなかったように思う。今村が持ち得ていた知識と想像力は今や失われているのかもしれない。

今村が近代について考える際に、依拠していたのは基本的に疎外論であった。彼が講義の中で「疎外論」という言葉を直接に使ったことはなかったように記憶しているが、その発想の根底には疎外論があった。

私が最近、今村の文章で最も熱心に読んだのは、もともと1960年に粟田賢三の訳で岩波新書として発売され、1995年に岩波書店の同時代ライブラリーに収録されたF・パッペンハイム『近代人の疎外』に今村が寄せた解説である。この短い文章は今村の疎外論理解の本質を表現した見事なものである。

今村は、疎外論はヘーゲルの『精神現象学』に端を発するとし、その歴史は「起源と目的をもつ神学=形而上学的物語という意味で、疎外の観念が存在論化する歴史であった」と述べている(173頁)。

それは「透明な疎外なき人間」を前提してしまうという大きな問題を抱えている。

だが、疎外論の伝統はそれに尽きるものではない。今村はそこで、フォイエルバッハに始まり、若きマルクスによって継承され、ベンヤミンとアドルノによって練り上げられた「批判的疎外論」に目を向ける。「批判的疎外論は、現実を変革しようとする実践的関心にとって不可欠である」(174頁)。

今村によれば、パッペンハイムも当然、存在論的疎外論の立場に立っている。それはこの本が書かれた時代(1959年)のことを考えれば仕方のないことである。だが、今村はパッペンハイムの中に、批判的疎外論の視点が存在していることを指摘する。

実際のところ、存在論的疎外論と批判的疎外論の概念的差異はそれほどハッキリとはしていない。だが私は、疎外論は現実を変革しようとする実践的関心にとって不可欠であるという今村の思想に強く共感する。

だからこそ──拙著の話になってしまい恐縮であるが──『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年。増補新版:太田出版、2015年)で、疎外論の問題に正面から取り組んだのである。