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難しそうに見える「相対論」の世界、実はちっとも不思議ではなかった

だけど「宿題」は増え続けています
楽しいマンガに導かれてどんどん読める! と評判の『「超」入門 相対性理論』を上梓した福江純氏が特別エッセイで登場。「謎と不思議に満ちた相対論」といった定番の表現に鋭く突っ込んでくださいました。

祖父母の家への道で感じた相対性

ぼくは京都に住んで久しいが、もともとは山口県の宇部市で生まれ育った人間だ。何年か前に、何十年ぶりかで、銀天街という宇部市内の〝繁華街〟を歩く機会があった。

宇部も郊外型の街になり、かつては賑やかだった商店街もシャッター通りになってしまったのは、聞いてもいたし、それほど驚きではなかった。予想外だったのは、銀天街って、こんなに短かったっけ、ということだ。

この銀天街の西続きの商店街に祖父母の家があって、このあたりは、小さいときにしょっちゅう歩き回った場所だ。貸本屋なんてものもあった時代で、『冒険王』とか月刊雑誌をよく借りにいった想い出がある。

祖父母の家の跡地は駐車場になっているはずで、ここだったかなと思って写真を撮って帰ったものの、どうも釈然としない。帰京して、グーグルアースで眺めてみたものの、やはりおかしい。

なんとも気になるので、別の機会に再訪したら、案の定、最初に写真に撮った場所は間違っていて、祖父母の家の跡地はもっとずっと手前だった。何のことはない、2倍くらい歩き過ぎていたのである。

銀天街の西
宇部中央銀天街の西のエリア。①が商店街の入り口(スタート地点)、②が祖父母の家の跡地、③が最初に勘違いした駐車場。スタート地点からは、ちょうど2倍ほど距離が違っている。(google mapを筆者が加工)

もちろん大人になってからも祖父母の家は何度も訪問していたのだが、今回、数十年ぶりに歩いたときには、子どものときの感覚スケールで歩いてしまったようだ。こういう錯覚は初めてで、とても新鮮な経験だった。

これなどまさに、観測者によって異なる〝相対性〟の一種といえるだろう。子ども目線と大人目線では、観ている世界(時空)が違うのである。大人であるという現在の前提(常識)を疑い、時空的に隔たった子どもという立場に立ち戻って謎が氷解したわけだ。

日常と地続きの相対論

話はふたたび時を遡るが、高校生の時分には、祖父母の家の近くにあった街の本屋さんにもよく出入りした。