講談社が昭和に向かって「異常な発展」を遂げた「ある理由」

大衆は神である(38)
魚住 昭 プロフィール

口を出すことも

当然ながら、大野は講談社の経営方針に関与することになる。大正3年10月に創刊された『少年倶楽部』の発行部数を決める会議にも参画している。次も大野の証言。

〈その時分の野間さんは、大きなことがお好きであるんだが、しかし雑誌についてはてんで見当がついていないころでしてね。『少年倶楽部』を六万刷ると言い出したんで、私も驚いた。これは大変なことですよ。(後の大正13年に講談社が創刊した)『キング』の五十万、七十万は、そう無鉄砲じゃないけれど、『少年倶楽部』の六万なんて大変なことなんです。そういうことをやって、いっぺんにいけなくなったら、こっちもつぶれることになるんだし……そこで私は「そういう部数は困る」と申し上げたんです。私としては三万くらい刷れば手堅いことで、間違いないが、なるべく手堅くやってもらわないと、返品が多くなっても困るからと申し上げたんです。

それで奥さん(左衛)が間をとられて、四万にしようかということになったんです。(略)少年倶楽部は、さすが野間さんは教育家だから着眼点がいいんですが、ただ商売上の、経営上成り立つかどうかということについての経験はおありにならない。ごく日の浅いころですから、その点はいい加減なんです〉

実際には、『少年倶楽部』創刊号は定価15銭(実業之日本社の『日本少年』などは定価10銭だった)で3万5000部発行された。定価が高いこともあって思うように売れず、約1万7000部の返品がきた。もし清治の言うように6万部刷っていたら、講談社は返品の重みでペチャンコになっていただろう。

しかし、その一方で、『講談倶楽部』は月々500部~1000部ずつ増えて3万部を突破し、『少年倶楽部』や『雄弁』の赤字をカバーするドル箱に成長した。講談社は有力雑誌社の仲間入りをし、大野─清治の「特別な関係」が出版流通業界の動向にも影響を与えるようになった。

17銭をめぐる攻防

大正5(1916)年2月、神田で東京雑誌組合の臨時総会が開かれた。議題は雑誌の値上げである。第1次世界大戦(大正3年7月~大正7年11月)で洋紙が輸入されなくなり、原料のパルプや印刷料などが高騰して、出版社も定価を上げざるを得なくなった。

まず問題になったのは、少年少女雑誌である。当時、定価10銭(時事新報社の『少年』『少女』、実業之日本社の『日本少年』、博文館の『少年世界』『少女世界』)のものと、定価15銭(東京社の『少年画報』と講談社の『少年倶楽部』)のものとの2種類があった。

10銭の雑誌は、ページ数を増やして12銭にするとすんなり決まった。もめたのは15銭のものである。小売店側は「ただでさえ子供には高いものが、値上げしたら売れなくなる。ページ数を減らして15銭に据え置いてくれ」と主張した。『少年画報』(定価15銭)を発行する東京社の社長・島田義三も同意見だった。

それに対し、大野は17銭への値上げを強硬に主張した。取次の口銭は依然として雑誌1冊あたり1厘、2厘と極端に低かった。定価値上げの機会を捉え、その値上げ分で取次の口銭をいくらかでも上げようという魂胆である。