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のちに間違いが判明した、ノーベル賞の業績から「分かること」

科学が持つ「不完全」という宿命

医学生物学論文の70%以上が再現不可!?

科学と生命は、実はとても似ている。それはどちらも、その存在を現在の姿からさらに発展・展開させていく性質を内包しているという点においてである。その特徴的な性質を生み出す要点は2つあり、1つは過去の蓄積をきちんと記録する仕組みを持っていること、そしてもう1つはそこから変化したバリエーションを生み出す能力が内在されていることである。

この2つの特徴が漸進的な改変を繰り返すことを可能にし、それを長い時間続けることで、生命も科学も大きく発展してきた。

だから、と言って良いのかよく分からないが、科学の歴史を紐解けば、たくさんの間違いが発見され、そして消えていった。科学における最高の栄誉とされるノーベル賞を受賞した業績でも、後に間違いであることが判明した例もある。

たとえば1926年にデンマークのヨハネス・フィビゲルは、世界で初めて「ガン」を人工的に引き起こす事に成功したという業績で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。しかし、彼の死後、ラットの胃に寄生虫を感染させることによって、彼が人工的に誘導したとされた「がん」は、実際には良性の腫瘍であったことや、腫瘍の誘導そのものも寄生虫が原因というより、餌のビタミンA欠乏が主因であったことなどが次々と明らかになった。

ノーベル賞を受賞した業績でも、こんなことが起こるのだから、多くの「普通の発見」であれば、誤りであった事例など、実は枚挙にいとまがない。誤り、つまり現実に合わない、現実を説明していない仮説が提出されることは、科学において日常茶飯事であり、2013年のネイチャー誌には、医学生物学論文の70%以上で結果を再現できなかったという衝撃的なレポートも出ている。

しかし、そういった玉石混交の科学的知見と称されるものの中でも、現実をよく説明する「適応度の高い仮説」は長い時間の中で批判に耐え、その有用性や再現性故に、後世に残っていくことになる。

そして、その仮説の適応度をさらに上げる修正仮説が提出されるサイクルが繰り返される。それはまるで生態系における生物の「適者生存」のようである。ある意味、科学は「生きて」おり、生物のように変化を生み出し、より適応していたものが生き残り、どんどん成長・進化していく。それが最大の長所である。

現在の姿が、いかに素晴らしくとも、そこからまったく変化しないものに発展はない。教条主義に陥らない〝可塑性〟こそが科学の生命線である。

修正された〝法則中の法則〟

しかし、このことは「科学が教えるところは、すべて修正される可能性がある」ということを論理的必然性をもって導くことになる。科学の進化し成長するという素晴らしい性質は、その中の何物も「不動の真理」ではない、ということに論理的に帰結してしまうのだ。

たとえば、夜空の星や何百年に1回しかやってこない彗星の動きまで正確に予測できたニュートン力学さえも、アインシュタインの一般相対性理論の登場により、一部修正を余儀なくされている。法則中の法則とも言える物理法則でさえ修正されるのである。

 

科学の知見が常に不完全ということは、ある意味、科学という体系が持つ構造的な宿命であり、絶え間ない修正により、少しずつより強靭で真実の法則に近い仮説が出来上がってくるが、それでもそれらは決して100%の正しさを保証しない。

より正確に言えば、もし100%正しいところまで修正されていたとしても、それを完全な100%、つまり科学として「それで終わり」と判定するようなプロセスが体系の中に用意されていない。どんなに正しく見えることでも、それをさらに修正するような努力は、科学の世界では決して否定されない。

だから科学的知見には、「正しい」or「正しくない」という2つのものがあるのではなく、本質的には、その仮説がどれくらい確からしいのかという確度の問題が存在するだけなのである。

科学的知見の確からしさ

では、我々は、そのような「原理的に不完全な」科学的知見をどう捉えて、どのように使っていけば良いのだろうか? 一体、何が信じるに足るもので、何を頼りに行動すれば良いのだろう?

優等生的な回答をするなら、より正確な判断のために、対象となる科学的知見の確からしさに対して、正しい認識を持つべきだ、ということになるのだろう。

「科学的な知見」という大雑把なくくりの中には、それが基礎科学なのか、応用科学なのか、成熟した分野のものか、まだ成長過程にあるような分野なのか、あるいはどんな手法で調べられたものなのかなどによって、確度が大きく異なったものが混在している。

ほぼ例外なく現実を説明できる非常に確度の高い法則のようなものから、一定の根拠はあったもその事象を説明する多くの仮説のうちの一つに過ぎないような確度の低いものまで、幅広く存在している。それらの確からしさを正確に把握して峻別していけば、少なくともより良い判断ができるはずである。

たとえば、近年、医学の世界で提唱されているevidence-based medicine(EBM)という考え方では、そういった科学的知見の確度の違いを分かりやすく指標化しようとする試みが行われている。これは医学的な知見(エビデンス)を、調査の規模や方法、また分析手法などによって、階層化して順位付けし、臨床判断の参考にできるように整備することを一つの目標としている。

同じ科学的な知見と言っても、より信頼できるデータはどれなのか判断する基準を提供しようとする、意欲的な試みと言えるだろう。

しかし、こういった非専門家でも理解しやすい情報が、どんな科学的知見に対しても公開されている訳では、もちろんないし、科学的な情報の確度というものを、単純に調査規模や分析方法といった画一的な視点で判断して良いのか、ということにも、実際は深刻な議論がある。