昭和19年2月17日、米軍機によるトラック島空襲

特攻作戦採用のきっかけとなった、あまりに間抜けな海軍の失態

75年前の今日、日本海軍の拠点壊滅!

「特攻」が語られる際、取り上げられるのは、その作戦の理不尽さや戦果の多寡であって、どのような経緯でこの作戦が採用されたのかについて触れられることは少ない。

実は、昭和19(1944)年10月25日の最初の特攻、敷島隊の突入の1年以上前に、航空機や特殊潜航艇による体当たり作戦が具申されていたのだが、海軍は「搭乗員が必ず戦死するような作戦は採用できない」として却下していた。

ところが、75年前のある日の出来事をきっかけに、特攻作戦は一気に加速し、多くの若い搭乗員が海原に散ることになった。その出来事とは、海軍上層部の大失態による手痛い敗北だった。

 

一部始終を見ていた東京帝大出の主計科士官

いまから75年前の昭和19(1944)年2月17日から18日にかけて、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島(現・チューク諸島。環礁と248もの島々からなるが、当時はこれらを合わせてトラック島と呼んでいた)が、米海軍の機動部隊艦上機の大規模な空襲を受け、基地機能を喪失するほどの損害を被った。

いま、チューク諸島は、海底の戦跡めぐりのダイビングスポットと化していて、戦時中、ここで多くの艦船が沈められたことは広く知られているようになった。しかし、この「トラック大空襲」が、日本軍が南太平洋での戦いを放棄する直接の引き金になり、さらには「特攻」が戦法として採用される遠因ともなったことは、あまり語られることがない。ここでは、トラック空襲から特攻にいたる道のりを改めて振り返ってみたい。

艦上攻撃機「天山」を主力とする第五五一海軍航空隊(五五一空)主計長としてトラック空襲に直面し、のちにフィリピンで「特攻の生みの親」とも称される大西瀧治郎中将の副官として特攻の一部始終を見届けた門司親徳さん(1917~2008)は、

「『特攻』を語るならば、必ず、トラック大空襲から語り起こさないといけない」

と、しばしば口にしていた。

門司さんは、東京帝国大学から短期現役主計科士官として海軍に入り、空母「瑞鶴」乗組で真珠湾作戦に参加したのを皮切りに、ニューギニア・ラビの敵前上陸に参加するなど各地を転戦、トラック島空襲当時は主計大尉だった。東京帝大-海軍の同期には鳩山威一郎氏(元外務大臣)、中曽根康弘氏(元総理大臣)らがいる。戦後は日本興業銀行勤務を経て丸三証券社長をつとめた。

門司親徳さん。トラック島大空襲から特攻隊編成にいたる道のりを、最前線で目撃していた

「太平洋戦争は、真珠湾、マレー半島への日本軍の奇襲攻撃(1941年12月8日)、それに続く快進撃に始まり、ミッドウェー海戦(1942年6月5日)の敗戦でその勢いが止まり、ガダルカナル島失陥(1943年2月)からは完全に守勢に転じた。それでもなんとか必死の防戦で重要拠点は守り通してきたのが、トラック空襲を境に、敵を迎え撃つことすらままならなくなった。あとは、坂道を転がり落ちるだけです。神風特別攻撃隊の出撃まで8ヵ月。この間の戦争の推移が、そのまま特攻隊に自然につながってゆくように、私には思えてならないんです」

トラック島は、スペイン、ドイツによる統治を経て、第一次世界大戦後、連合国の一員だった日本の委任統治領となり、南洋庁の支庁が置かれていた。太平洋戦争が始まってからは、南方最前線への補給基地として、また、聯合艦隊の泊地として、環礁内には数多くの艦船が停泊し、飛行場には前線に送られる飛行機が翼を並べていた。

戦局の悪化が顕著になった昭和18(1943)年9月30日、日本政府は、戦線縮小と作戦方針の見直しをふくめた「絶対国防圏」構想を発表している。これは、千島からマリアナ諸島、西部ニューギニアにいたるラインを絶対国防圏として死守するというものだが、トラック島はまさにその中核的な拠点だった。

「直径50キロにおよぶ大きな環礁に大小の島々が浮かび、環礁内は波も静かで、海はエメラルド色に澄んでいました。環礁内には竹島、春島第一と第二、楓島(かえでじま)と4つの飛行場があり、中部太平洋の海軍部隊を指揮する第四艦隊と、基地防衛の第四根拠地隊の司令部は夏島にあって、夏島には横須賀の海軍料亭『小松』の出店(通称、トラック・パイン)もありました」

と、門司さんは言う。スマトラ島コタラジャ(現バンダ・アチェ)基地でインド洋のイギリス艦隊に備えていた門司さんの五五一空の第一陣が、トラック島に進出したのは昭和19(1944)年2月11日のことだった。

昭和18(1943)年11月21日、中部太平洋ギルバート諸島のマキン、タラワ両島に米軍が上陸、日本軍守備隊は絶望的な戦闘ののち全滅。そのため、五五一空が増援部隊として、インド洋からトラック島に派遣されることになったのだ。五五一空の移動中にも、米軍は、昭和19年2月1日、マーシャル諸島のクェゼリン島、ルオット島に上陸を開始。両島の守備隊も、6日までに全滅した。トラックには、聯合艦隊旗艦・戦艦「武蔵」をはじめとする主力艦隊が在泊していたが、目と鼻の先ともいえるクェゼリンが陥落したことで、いち早くより安全なパラオに退避してしまい、五五一空が到着したときには、環礁内に主力艦隊の姿はなかった。

「竹島基地の、滑走路周辺のエプロンなど平らな場所には、零戦など小型機が海にこぼれ落ちそうに思えるほどたくさん並んでいましたが、すぐ近くまで敵が迫ってきたという緊迫感と、昨日まで聯合艦隊の中心だったのが、艦隊に置いてきぼりを食ったような不安で、トラックは一種異様な雰囲気でした」

五五一空は、環礁内の楓島基地に駐留することになったが、空襲を受けた2月17日は、機材や物資の揚陸を終え、落ち着いたばかりのときだった。

「15日、司令部が敵機動部隊の無線を傍受し、索敵機2機も未帰還になったとのことで、トラック全島に緊張が走りました。五五一空は来たばかりですから、司令・菅原英雄少佐や飛行隊長・肥田真幸大尉が海図を広げて、この方面の研究をやっていました」

第四艦隊司令部は、2月16日午前3時30分(日本時間。以下同じ)、トラック方面の各部隊に、戦闘配備にあたる「第一警戒配備」を下令した。隊員たちはそれぞれ戦闘配置につき、飛行機は燃料、機銃弾、あるいは爆弾、魚雷を積載し、敵艦隊発見の報告があればただちに出撃できる状態で待機する。五五一空からは「天山」9機が索敵に発進した。

「ところが、この警戒配備が、なぜか解除されたんです。私がそれを知ったのは午後でしたが、五五一空の戦時日誌には、午前10時30分に通常の『第三警戒配備』になったと記されています。敵信傍受で敵機動部隊が近くにいるのはわかっているのに、変だな、とは思いましたが」

飛行場に待機した零戦の機銃弾は、上空哨戒につく数機を残しておろされ、攻撃機の爆弾や魚雷もはずされた。非番の者には外出も許された。