『ハリー・ポッター』は「ルールなき闘争の時代」の教養小説である

イギリス階級と「成長物語」の150年
河野 真太郎 プロフィール

現代の教養小説としての『ハリー・ポッター』

最後に、このような紆余曲折をたどったイギリスにおける教養小説=成長物語の最新版として、ご存じ『ハリー・ポッター』シリーズを取り上げたい。

まず、『ハリー・ポッター』シリーズは、19世紀的な教養小説のおなじみの道具立てをみごとに利用している。主人公のハリーは孤児であり、叔父・叔母の家に引き取られているが、階段下の物置に押し込められ、従兄弟にいじめられて惨めな日々を過ごしている。ここまで、『ジェイン・エア』と寸分違わず(は言い過ぎだが)同じである。

そして、『ハリー・ポッター』は遺産プロットでもある。突然に届くホグワーツ魔法魔術学校への入学許可証が「隠された遺産」だ。ハリーはそれによって「本来の階級」を回復する。彼はどこの馬の骨ともつかない孤児などではなく、闇の魔法使いヴォルデモートを唯一撃退した魔法使いを両親としたことが明らかになるのだから。

ところがそこから先で、『ハリー・ポッター』が学園ものとして展開していくにいたって、この作品は教養小説から逸脱して、20世紀的な奨学金少年物語へとシフトしていく。

ホグワーツ魔法魔術学校は、パブリック・スクールやグラマー・スクールの一部を明らかにモデルとしているが、ハリーはそこで身分違いの疎外感を克服せねばならない奨学金少年となる。ハリーと他のエリート(ドラコ・マルフォイら)との差異は、奨学金少年的な経験そのものだ。

では、ホグワーツ魔法魔術学校は、ハリーのような奨学金少年に教育機会を与えてくれる、恵み深い福祉国家の教育機関なのだろうか。否、である。『ハリー・ポッター』のその後の物語は、基本的にその学校の、さらにはそこで教える教師と、魔法省の「腐敗」をプロットの駆動原理としていくのだ。

そして、魔法省奥深くまで巣くった悪と戦うにあたって、学校で学ぶ呪文=ラテン語の知識は基本的には訳に立たない。ハリーたちは学校では教えてくれない問題解決力を発揮することが求められる。

ここに見られる反官僚主義、反学校、反教養主義はすべて新自由主義の特徴だ。そして、『ハリー・ポッター』シリーズの全体を通覧すると、前半では、事態が学園内に収まっていて、生徒たちがルールに基づいた競争を行っていたのが、後半の、ヴォルデモートとの対決の物語は学園の外側でのルールなき闘争を中心とし、そのトーンは非常にダークなものになっていくことも指摘しておこう(これは三浦玲一「選択と新自由主義と多文化主義──グローバル化時代の文学としての『ハリー・ポッター』シリーズ」『英文学研究』第88巻の指摘である)。

そこには、最終的にはセーフティーネットに守られた、ルールの内部での競争としての福祉国家メリトクラシーから、落伍者には死が待つ、ルールなき闘争としての新自由主義メリトクラシーへの反転が見て取れる(日本では、『バトル・ロワイアル』(深作欣二監督の映画版が2000年)と、それ以降の学園サバイバルものを考えればよい)。

このように、成長物語として『ハリー・ポッター』シリーズを見ると、それは19世紀的教養小説に始まり、20世紀的福祉国家な奨学金少年物語を経て、20世紀終盤以降の新自由主義的な競争と成長の物語へと、本稿で述べた150年の歴史を駆け抜ける作品であることが分かる。

そのような歴史の果てにある現在の私たちの成長観とは、どのようなものになっているだろうか。冒頭で述べたような個人の精神的成熟というのは、こう見てくると実はすでに過去のものになっているのかもしれない。

現在、経済的なものと人間の成長は、19世紀のような形で再結合しつつあるのではないか。職業的スキルを身につけ、新たな階級編成の中で落伍者とはならないこと。私たちの成長の観念はそのようなものへと切りつめられているのかもしれない。

例えば、宮崎駿監督の『魔女の宅急便』(1989年)のような「成長物語」はどうだろうか。そこでは、職業的なスキルを身につけることと自己形成が分かちがたく結びついていないか(詳しくは拙著『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)を参照)。

また、飛躍するようではあるが、現代の少年の成長物語である『僕のヒーローアカデミア』(堀越耕平、『週刊少年ジャンプ』にて連載中)が、あくまで職業としてのヒーローを目指す学園ものであり、それが自らの能力の「限界を超える」というブラック企業的な倫理を推奨するものになっているのはどうだろうか。

こういった作品が前提とする「成長」についての想像力は、国は違いこそすれ、本稿で述べたイギリスの成長物語の変遷の果てに生まれたものかもしれないのだ。

そしてなんといってもわたしたちにとっての困難は、現在の新自由主義的成長物語が、労働者階級であれなんであれ、階級コミュニティを背景にするものではなく、徹底的に個人化されてしまっていることだろう。

そのような現在の成長観の外側があったことを知るためにも、本稿で述べたような系譜を知っておくことは無駄ではあるまい。