『ハリー・ポッター』は「ルールなき闘争の時代」の教養小説である

イギリス階級と「成長物語」の150年
河野 真太郎 プロフィール

「脱・階級化」していく成長物語

ただし、ジュードの階級上昇=成長の夢は貧困の現実の前にはかなく散った。その夢を受け継ぐのが20世紀のジュードたちである。その名も奨学金少年(そして少女)。

ジュードの悲劇は、19世紀から20世紀の変わり目の時点で、先述の1870年教育法によって小学校教育の義務教育化は進んでいたけれども、中等学校以上の教育機会はいまだ労働者階級に開かれていなかった歴史的瞬間の悲劇だった。

この時点での中等教育は、先述のパブリック・スクールに加えて、中世から存在はしていたものの、19世紀に中流階級向けに整備されたグラマー・スクールが存在し、労働者階級にはいまだ中等教育は開かれていないという状況だった(ちなみに、グラマー・スクールとは文字どおりには「文法学校」で、ギリシャ・ラテン語を教育の軸とすることに由来する名称である)。

20世紀前半になると、この状況に変化が訪れる。労働者階級の中でも優秀な子供に奨学金を与え、中等学校さらには大学に進学させることが制度化されていくのである。

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それを最初に法制化したのは、1907年中等学校規則・付則であった(この規則も含め、20世紀初期の中等教育と奨学金については井上美雪「学校へ行こう」『愛と戦いのイギリス文化史──1900-1950年』武藤浩史他編、慶應義塾大学出版会、2007年を参照。また奨学金少年については大石俊一『奨学金少年の文学』英潮社新社、1987年も参照)。

例えば、先述のレイモンド・ウィリアムズは1921年生まれの人であるが、彼はウェールズの労働者階級出身で、奨学金を得てグラマー・スクールへ、さらにはケンブリッジ大学へ進学し、最終的にはケンブリッジ大学の教授となった、典型的な奨学金少年である(彼の経験については、半自伝的な小説『辺境』(小野寺健訳、講談社、1971年)で描かれている)。

この変化は、労働者階級への、万人への教育機会の拡大として歓迎されるべき事態だろうか。部分的にはそうである。だが、先ほど私が「優秀な子供に奨学金を与え……進学させる」という為政者の視線で語ったことには理由がある。

20世紀初頭の奨学金制度整備は、とりわけアメリカやドイツといった国に対してイギリスが教育と科学技術で遅れをとっているという危機感と、国力を増進しようという意図のものとに進められたのである。必ずしも、労働者階級への福祉という人道主義的な動機だけではなかった。

それと対応するように、奨学金少年・少女には苦悩も用意されている。彼らには、階級上昇の可能性が与えられた。つまり、ここまで述べた、従来の教養小説的な「成長」への算入の可能性が与えられた。しかしそれは反面で、彼らのコミュニティからの疎外をもたらしもするのだ。

奨学金少年・少女たちを学校で待ち受けているのは、自分よりも上の階級の子供たちのあいだでの、あからさまないじめも含む疎外だ(部分的には、前回のジョージ・オーウェルも経験した疎外である)。

ところがその一方で、新たな教育制度の中で中流階級化した彼らは、自分が生まれた階級(労働者階級)に戻ることもできないという意味でも疎外されている。悪くすれば、彼らは労働者階級のコミュニティの「裏切り者」にされてしまう。ひどい板挟みである。

だがここには、新たな成長物語の成立もある。つまり、階級上昇というだけではない、コミュニティとしての労働者階級から身を引き離し、(疎外感を感じながらも)個人として生きていくという成長物語である。かつての教養小説のように、ある階級(基本的には中流階級)へと所属することが精神的成長と一体になっているのではなく、階級から離脱して個人となることが成長となるのだ。

かなり、現代的成長観に近づいてきたのではないだろうか。

(ここでは詳しくは論じられないが、イギリス文学では具体的にはD・H・ロレンスやジェイムズ・ジョイスがこういった「逃走の文学」の最初の代表選手だろう。そこから時代を飛んで、北イングランドの炭坑地帯の労働者階級から離脱して、少年がバレエダンサーを目指す『リトル・ダンサー』(2000年)がその系譜上の名作である。

また、日本に目を向けると、イギリス的な教養小説はあまり多くはないものの、その原型は夏目漱石の『三四郎』(1909年)であろう。主人公三四郎は中流の出身なので、独学者の系譜には属さないものの、「ストレイ・シープ」というリフレインが示す個人の疎外は、独学者の系譜に近いものがある)