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『ハリー・ポッター』は「ルールなき闘争の時代」の教養小説である

イギリス階級と「成長物語」の150年

「成長」の中身が変わってきた

突然であるが、みなさんは「成長」と言われればどのようなものを想像するだろうか。

とりあえず人間の成長に話題を限定すると、通常は、子供時代から大人になる過程で、身体的そして精神的に成熟することを成長と言うだろう。とりわけ、「あいつは成長がないなあ」などと言う場合には、精神的成熟こそが「成長」だと考えられているだろう。

ところが、歴史的に見ると、そのような成長観はごく最近のものかもしれないのである。そして、本連載で論じてきたイギリスの階級と、強調してきた階級の変化──個人が階級間を移動する、という意味と、階級社会そのものが変化するという両方の意味での変化──は、人間の成長観の変化と深い関係にあった。

今回はそのことを、19世紀の古典であるチャールズ・ディケンズやシャーロット・ブロンテから現代のベストセラー『ハリー・ポッター』シリーズにいたる、約150年の間に読まれたイギリスの代表的な成長物語に頼ることで、教養小説的な「成長」が新自由主義の現代にいたって変質していく過程を論じてみたい。

「教養小説」としての『ジェイン・エア』

文学で成長物語というと、「教養小説」というジャンルがある。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796年)を嚆矢とする、人間の成長を物語る小説群である。

「教養小説」という訳語は、少々分かりにくい。語源になっているのはbildungsromanというドイツ語で、bildungは「形成」、romanは「小説」の意であるから、直訳だと「形成小説」である。もうちょっと補えば、「自己形成小説」ということになるだろうか。

実際、教養小説については、主人公が内面的な成長をなしとげる物語である、といった定義が多く見られる。それ自体は大きな間違いとは言えない。だが、もしその「内面的な成長」というものが、現代において私たちが考えているそれと完全に同じだと考えられているとすれば、そこには決定的な誤解があると言わねばならない。

それは階級とコミュニティという2点から言える。現代においては「個人の内面」に焦点が当たりがちな成長であるが、歴史的にはその人が属する階級の問題、そして所属する(もしくは後に述べるようにそこから逃走する)コミュニティとしての階級の問題がついてまわるのである。

イギリスの教養小説というと、まず挙げられるのはチャールズ・ディケンズ(1812-70年)の名である。そしてその代表作『デイヴィッド・コパフィールド』(1850年)や『大いなる遺産』(1861年)は、確かに主人公の少年時代から、紆余曲折を経ていずれも一人の女性と結ばれるところまでを描く成長物語だ。

いずれにおいても確かに、主人公の内面的な成長があるのかもしれない。しかしここで重要なのは、その内面的成長が、階級の上昇や本来の階級の回復と切り離せないものになっていることである。

どういうことか。それを説明するにあたって、ディケンズに先行して彼が利用した教養小説の道具立てを用意した、シャーロット・ブロンテ(1816-55年)の『ジェイン・エア』(1847年)を見てみよう。

『ジェイン・エア』のあらすじは以下の通り。

主人公のジェインは孤児で、育ての親の家でひどい待遇を受けている。やがて寄宿学校を出たジェインは、貴族のロチェスター氏の屋敷で、娘の家庭教師となる(ちなみに、女家庭教師(ガヴァネス)というのは、決して労働者階級ではないが、上・中流階級でもない、微妙な階級である)。

やがてジェインとロチェスターは身分違い(階級違い)の恋に落ち、結婚することになる。しかし、ロチェスター氏にはすでに妻バーサがおり、狂気に陥って屋根裏部屋に監禁されていたことが露見する。失意のジェインはロチェスター氏のもとを去る。

行き倒れになりかかったジェインを、偶然にも従兄で聖職者のセント・ジョンが救う。彼はジェインに、インドでの宣教に妻としてともに行ってくれるように懇願するが、ロチェスターの呼び声を耳にしたジェインはそれを断ってロチェスターの屋敷に戻る。

ところが、ジェインが不在の間に、屋敷はバーサがかけた火によって焼け落ち、バーサは死んでロチェスター自身も片腕と視力を失っていることが判明する。ジェインは今度こそ二度とロチェスターのもとを離れないことを約束する。