未来学者は間違っている 私たちの知能の座は「ゲノム」だった

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
佐倉 統 プロフィール

ロボットの「身体知」を競う

カーツワイルやボストロムらが人類の知能を論理性や抽象性にのみ限定してとらえている背景には、おそらく文化的な相違があるのではないかと考えている。

身体性や環境との関わりでAI/ロボットを考える視点は、どうも日本の研究者のほうが得意なように思えるのだ。

たとえば、サッカーをロボットにやらせて勝敗を競うロボカップは、身体知を競うプラットフォームを作ろうという目的で、北野宏明(ソニーコンピュータサイエンス研究所)や浅田稔(大阪大学)、松原仁(はこだて未来大学)らが1990年代に始めたものだ。

ロボカップPhoto by Getty Images

サッカーをやっていて、どこにパスを出すのか、それとも自分でドリブルで突破するのか、いちいち頭で考えて決めているわけではない。身体が反応して、そのつど適切な行動をとる(身体の訓練がきちんとできていれば、だけど)。

身体が情報処理して適切な判断を下している。これが身体知だ。身体知は言語や論理や抽象概念を使って判断を下すのではない。

ロボカップのコンセプトには、当時のAI/ロボット研究が論理的能力だけに注目していたことへの批判的な視点がある。

また、豊橋技術科学大学の岡田美智男は、あえて能力の低いロボットを設計することで人とロボットのコミュニケーションを促進する「弱いロボット」というユニークな発想を展開している(岡田美智男『弱いロボット』医学書院、同『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』講談社現代新書)

人と見た目がそっくりのアンドロイドを作り続けている石黒浩(大阪大学)の仕事も、「まず身体から始める」という点で、身体重視アプローチのひとつと言ってよかろう。

石黒浩石黒浩(右) Photo by Getty Images

「AI/ロボット」の身体性を総力研究

そもそも、身体性自体について、仏教とキリスト教では扱いというか位置づけがずいぶんと異なると言われている(湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』講談社学術文庫)

仏教は修行で身体を鍛えることで優れた心を獲得しようとする。一方キリスト教は、合理的な思考を鍛えることで身体の平穏を得ようとする。心と身体、どちらが主でどちらが従か。

もっとも、このような図式的な二分法ではいかにも粗すぎるだろう。かえって物事を見えなくしてしまう危険がありそうだ。

フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)は、身体を知覚の中心にすえて現象学的哲学の大系を構築している。西洋の知のディスコースの中で、「身体」がどのような扱いをされてきたのか。また、東洋では「心」や「精神」はどのようなものとみなされてきたのか。

AI/ロボット研究においても、身体性を重視したロボットが必ずしも日本の専売特許というわけではない。

アメリカでも1980年代後半から、MITのロドニー・ブルックスが、単純だけれども学習能力のあるロボットを積極的に外部環境と相互作用させることで「進化」させるサブサンプション・アーキテクチャを推進し、ロボット研究において一世を風靡した。この流れは今のお掃除ロボットルンバに受け継がれている。

AI/ロボットの比較文化的研究は、まだ緒についたばかりだ。まだまだ、考えなければいけないこと、調べなければいけないことが、たくさんある。

そこで、理化学研究所革新知能統合研究センターの活動の一環として、AI/ロボット研究における身体性の文化差を明らかにするための研究会を立ち上げた。

メンバーはAI研究者や認知工学者のほか、能楽師、ベンチャー企業社長、台湾の法学者、アメリカの経営学者など多士済々。人工知能の哲学についての荒削りだけれども意欲的な2冊書いている松田雄馬さんにも加わっていただいている。いずれその結果を御報告できるものと思う。

乞う御期待!

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